てすかとりぽか

最近はポケモンのことを書く場所です。

『カラフル』 ネタバレなし

※※今回はネタバレなしです。でもTVCMが既にネタバレじゃねーか!とか言わない。※※

カラフル

2010年の日本のアニメ映画。原恵一監督作品。

一度死んだはずの僕は、天使?の導きで、小林真という中学生としてもう一度人生をやり直すチャンスを与えられる。しかし、その中で、前世の自分が犯した罪について気づくことが出来なければ、再びその命を失うこととなる。前世の僕の犯した罪とは?ネタバレされたくなければ、TVCMが流れた瞬間にチャンネルを変えろ!!

いや、ほんとまじで、TVCMが一番のネタバレなんで!!あんなこと言っちゃだめでしょ!?

でもまぁ、オチが凝ってるとかM・ナイト・シャマラン的な作品ではないですし。むしろ見どころは、美しい二子玉近辺の風景や、誰もが郷愁を覚える中学生時代のあれこれや、学校や家族も交えたリアルな人間模様だったりするので。それを見て優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたりする、そういう作品だと思います。

そして、『カラフル』というタイトルに表されたそのテーマを、あらゆる意味で受け止める作品です。

「人には色々なカラーがある。キレイな色も、キタナイ色も。誰しもが色々なカラーを持っているのは当たり前。それが人間らしさなんだ。」と。真面目な少年だってエロ本を読むし性欲もあるし、模範的な母親だって不倫はする。可愛い女の子だって隠れて売春してる。でも、そんなカラフルな人間だっていいじゃない。

かつてのアニメ映画作品で、ここまで露骨に“人間の汚さ”を描いた物語はなかったと思います。

「キレーはキタナイ。キタナイはキレー。異形を拒む心こそマチガイなのだ!」そんな『外道節』を、アニメ映画という器を借り、美しい光景と中学時代の甘酸っぱい気持ちとともに爽やかに謳いあげる本作は、やはり既存のアニメ映画とは一線を画した作品であるなーと感じました。正直、単純に批評するのが難しい作品です。

しかも、この映画が本当に凄いのは「“人間の汚さ”を描いているのが物語部分だけではない」ということ。

そもそも、本作は「実写の映像や画像をそのまま使ったものは1カットもありません。全て人が描いてます。」という、気合いの入ったアニメの制作工程をウリにした作品です。アニメの背景に実写映像や写真を使ったり、手描き風に加工して使うことは最近多いのに。自分はその心意気に惹かれたのも本作視聴の動機です。

でもでも。あれっ?中盤以降から、突然背景が“明らかな実写映像”に…。

いや、もしかしたら「あまりに緻密に書き込み過ぎて、実写と区別がつかない程の絵になってしまった。」ってことなのかもしれませんが。そうじゃなかったら、これって詐欺なんじゃ?少なくとも、前述のような「実写の映像や画像は使っていない」というツィッターの宣伝アカウントの言質は嘘だってことなんじゃ?

でも、ふと気づいたんです。「これは意図して、“人間の汚さ”を見せているんじゃないのか。」と。

そもそも、「アニメ背景で実写を使うのは手抜きだ!」という、コアなアニメファンの固定観念に対するアンチテーゼなんじゃないのかと。「映画だってアニメだって、色んなカラーがあって普通なんじゃないか?キレーなやり方、キタナイやり方、手抜き、それら全てを認めさせてこそ、文化足りえるんじゃないのか?」と。

ツイッターで嘘の宣伝をするのも、プロモーションの一つのカラーとしてありなんじゃないか?」と。

「だから、他のアニメ作品ならまだしも、本作において作画や背景の部分で手を抜いたとしても、作品テーマによってエクスキューズされるから大丈夫。むしろ、そこであれこれ言うやつは、作品のテーマを理解できてない情弱だから気にするな。宣伝が商業主義的と言われても気にするな。それも含めてのカラーだ。」と。

「何より、製作に世界の亀山モデルこと、亀山千広さんがついてるんだから、重商色上等!!」と。

脚本面でも、通常のアニメ作品にはないアバンギャルドなカラーが垣間見られます。一応、「主人公に初めての友達ができる」という物語の本筋に関わる部分ではありますが、その友人は勝手に独りで“東急玉川線語り”をはじめてしまい、物語は唐突に“鉄歓喜の鉄道紹介ロードムービー”になってしまうのです。

「最近鉄道流行ってるじゃない?そういうのも取り込みたいじゃない?そういうカラーもいいよね?」と。

これは凄い!メインストーリーだけでなく、本筋に無関係なストーリーを強調する脚本面、背景や作画などの描写面、宣伝・プロモーション面、あらゆる面から「いろんなカラーがあっていいじゃない?」というテーマを徹底的に見せつけてくる本作は凄いと言わざるを得ない!!これ、disってるんじゃないんですよ?いやまじで。

まさに、タイトルを地で往く“玉虫色の映画”なのです。

閑話休題。本作の主人公は基本的にいじめられっ子であり、本人もその状況に抗することなく、卑屈な中学生時代を過ごしています。作中では、そうした描写が非常に露骨に描かれていますが、少なくともこういうシーンは観る人によってだいぶ観方は変わってしまうんだなあと思ったので少々触れます。

少なくとも、自身の中学時代は、光の側と闇の側どちら側だったかと問われれば闇の側の住人でした。

だから、この主人公の孤独と無気力、外部とコミュニケーションの遮断、諦めと絶望、安住の地の確保など、様々な想いに共感できました。同時に、非常に強い劣等感にも苛まれました。自分の中学生時代は最低だった。友達と普通に挨拶したり、普通にふざけあったり、そうした普通の中学生時代が送れなかったのだと。

そんな中、隣に座っていた茶髪の男の口から信じられない音が。「プッ!」っと。

笑った?笑ったように聞こえたのだけど?間違いありません。主人公の携帯電話に誰のアドレスも登録されてないシーン、クラスメートに無視されるシーン、不良にボコられるシーン、その都度となりの茶髪男は「プッ!」と笑っているのです。自身が主人公と共感しストレスを感じてるシーンで、彼は笑っているのです。

「あー、中学ん時、こういうダサいやついたいた。超ダセーwwwww」といった感じで。

嗚呼、彼は光の側の人間なのですね。自身が“ストレスドラマ”を鑑賞しているその横で、全く同じ作品を“コメディドラマ”として観ている人間がいるのです。作り手がどちら側のリアクションを求めているのかはわかりませんが、観る側がどんな中学生時代を送ってかによって、作品のカラーすら変わって見えてしまうのですね。

観た人の人生経験によって映画の作品性が変わる。それもまた、カラフルでいいんじゃないんでしょうか。

それにしても、この主人公の真には、黙ってても話しかけてくれる美人な女子と、病気の時に部屋にお見舞いに来てくれるメガネ女子がいるんですね。少なくとも、自分にはそんな女子はいませんでした。それなのに、真と来たら、メガネ女子のことをブス扱いしやがって。あーいう女子は高校とかで化けるんだぞ!?

ていうか、真って十分リア充じゃないっすか?
だんだん腹たってきた。

まこと死ね!!