てすかとりぽか

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『SR サイタマノラッパー』 DQN映画

SR サイタマノラッパー

2009年の日本映画。入江悠監督作品。

埼玉県北部の田舎町を舞台に、不器用にラッパーを目指す青年たちを描いた青春群像劇。一見、自主制作映画に毛が生えた程度の低予算映画にも見えますが、数々の映画祭で賞をとったり、局地的に(主に池袋で)観客同員数の記録を塗り替えたりと、わりとセンセーショナルな作品でもあるので観てみました。

本作を一言で言い表すのであれば、“地方の若者特有の閉塞感”を描いた作品です。

レコード屋もライブハウスもないサイタマ県のフクヤ市で、自分たちの曲でライブをすることを夢見ながらも日々ぶらぶらしている主人公たち。ヒップホップについて周囲からの理解も得られず、音楽でのしあがるための足がかりもない。音楽以外には、実家の家業を継ぐか、東京に出て働くか、そんな選択肢しかない人生の閉塞感。

この作品を絶賛する人々は皆、口を揃えて“そのリアリティに共感した”と言います。

こうした“地方特有の閉塞感”みたいなものは、埼玉に限らず多くの地方の若者が感じているものです。逆に、「共感できなかったけど…」という声は、都市部に住んでいる人の間で多く聞かれているようにも感じます。そして、その“共感の有無”こそが、本作に対する評価を大きく分けているようにも感じました。

ただ、自分はそうした閉塞的な地方出身者ながら、別の理由でイマイチ共感ができなかったんですね。

本作における閉塞感の正体が「本当に選択肢がない上での閉塞感」ではなく、「数ある選択肢の中から自分でその道を選んだが故の閉塞感」であり、さらに言うなら、「自身の努力が足りなかった結果による閉塞」と受け取れたからです。他に生きる道がたくさんありながら、自分で選んだ道なんでしょ?ヒップホップは。

ヒップホップをテーマとして、かつ同様の閉塞感を描いた作品に『8mile』がありますけど。

あれなんか、アメリカの自動車産業が没落した時代に、そのプレス工場しかないような街の話です。アパートも追い出されて、トレーラーハウスに居候して。そんな貧困や犯罪と縁のない世界、“8maile先の人生”に進むためには、“ラップバトルで勝つしかない”という、冗談みたいだけど本当に閉塞してるが故の閉塞感なんです。

本作では、貧困も犯罪もない埼玉で、実家も仕事も逃げ道もある主人公たちが、“閉塞感を感じている”だけ。

「日本の音楽シーンをリードする高学歴ラッパーたちが綴る色恋のリリックよりも、本作に登場する彼らの叫びの方がソウルでヒップホップだ!」的な売り文句をどっかで聞きましたが、自身はその評価に疑問を感じます。少なくとも、本作の主人公たちからは、本気で音楽で身を立てようと努力している様子はありません。

そんな奴らの言い訳より、高学歴ラッパーが、金の為に綴る色恋の方が遥かにソウルだと思います。

まず、ヒップホップって外国の音楽です。ソレを理解するのには外国語を勉強する必要があるし、理解できる仲間に出会うためには相応の努力をして、相応の大学に行く必要があります。それが単純に高学歴ラッパーが多い理由ですけど、少なくとも彼らは自分の夢の実現のために相応の努力をし、実現した人達なわけですから。

そして、自分自身を喰わしていくために必要なお金。生命維持のために綴る言葉には相応の魂を感じます。

少なくとも、親に喰わせてもらってる奴らの綴る言葉なんかよりは、ね。この日本では、地域的な学力格差は少ないし、音楽で身を立てるための要素にも地域的な格差はないと思います。そんな良い国に住んでる限り、住んでる地域や環境を理由に、さらに自分が好きで選んだ道に閉塞感を感じたとしても、自分は共感しません。

だから、本作における聞き取り憎いライムからは、本当に言い訳以外の何も感じられませんでした。

その歌詞の中で語られる、自分がニートであること、自身の無能さに対する自嘲、夢を夢と言ってしまう諦め。主人公たちの努力やその成果が1ミリでも見られる描き方をされているのであれば、ネタとして笑える部分なんだけど、全て辛辣な事実である以上はクスリとも笑えません。てゆか、見ててムカつく。

というか、主人公たちが、その他DQNに比べても、似たようなDQNに描かれてるのがもうなんとも。

こういう地方閉塞感作品にDQNがいっぱいでてくるのは当然のこととして、その中でも主人公たちはその他DQNとは一線を画した存在であるべきなんです。少なくとも、高い目標に向かって努力してるのであれば、本気でその他DQNの相手なんかしてる暇ないんだし。なのに、むしろDQNとしての三重を張ろうとしちゃう。

そういう意味で、ただのDQN映画としてはリアルで素晴らしい。共感は全くできないのですけど。