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泥船てすかとりぽか

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『キック・アス』 バカ映画規制

正月に録画した『ハーバード白熱教室』を一気見してたんですが、その中にこんな話がありました。

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功利主義の哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、道徳性の高さは効用の大きさで決まると考え、「望ましいものとは、実際に人が望むものである」と述べている。さらに、功利主義が高級な喜びと低級な喜びを区別することが可能だと論じている。区別する方法とは、両方を経験した人が選ぶほうが、より好ましい喜びだ、というのだ。

その実証のため、サンデル教授は学生たちにシェイクスピアと、シンプソンズを比較させる。「どちらがすきか?」という問いに対し、シンプソンズと答えた学生が大多数ながら、「どちらの作品の方がより価値のある経験・喜びであったか?」という問いに対しては、大多数がシェイクスピアと答えるに至った。

これは、「望ましいものとは、実際に人が望むものである」というミルの意見に反しているように見える。

シンプソンズよりシェイクスピアの方が高級であると感じた学生の意見としては、「そう教わっているから」、「文化的伝統的圧力」、「シェイクスピアを理解するには教育が必要だから」といった意見があがった。医学的見地より「強烈な喜びは、生涯にわたって得られる喜びよりも、質の低いものだ」という意見もあった。

「束の間の快楽に溺れるネズミであるよりも高級な喜びを享受する人間でありたい。」

しかし、こうした“喜びを高級と低級に区別すること”に対して、「個人的な価値判断基準、即ち個人的な権利が尊重されていないのではないか?」という反論もあった。この反論に対して、ミルはこう答えている。

「私は効用に基づかない正義の架空の基準を作り出す、どのような見せかけの理論にも異議を唱える。一方で、効用に根ざした正義こそが全ての道徳性の主たる部分であり、比類なく最も神聖で、拘束力をもつものであると考える。正義とはある種の道徳的要請の名称であり、集合的に見れば社会的効用は他の何よりも大きく、他の何よりも優先されるべき義務なのである。」

つまり、正義はより高級なもので、個人の権利は特権的だが、功利主義の条件から外れない場合においてのみ尊重される。私たちが考慮すべきは、人類全体の進歩で、長期的利益である。もし私たちが正義を行い、権利を尊重すれば、社会全体は向上するという考え方である。

ハーバード白熱教室 第2回 「命に値段をつけられるのか」 Lecture4 高級な「喜び」 低級な「喜び」より)

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先日、某映画業界のおエラいさんだか知らないけど、なんか老人が「最近の若者は、映画を芸術として見ないで、ただ面白いとかそういう風にしか見ないからダメだ。」的な話をされてて話題になってましたけど。その方の言い分を詳らかにしてみれば、様はミルの言ってることと同じなんですよね。

要するに、短期的刺激ばかり強いバカ映画ばっかり観てるんじゃなくて、道徳的で効用に根ざした芸術的作品を鑑賞すべきであると。また、それは「だってバカ映画の方が好きなんだもん」という個人的な価値判断基準、即ち個人的な権利よりも優先されるべき義務なのである…と。

例の非実在青少年問題だって同じです。あるエラいさんが「小説は高級なもの。漫画は低級なもの。」と言っているのは前述のような功利主義に基づいた考え方で説明がつきます。“それを公的権力を元に規制するのは正しいことで、それは個人の権利(表現の自由)より優先されるべき”ということも、功利主義の考え方。

さて、前置きはこれぐらいにしておいて、この作品の話をしましょう。

キック・アス

2010年のアメリカ映画。マシュー・ヴォーン監督作品。

滅茶苦茶面白かったです。「面白い」以外に本作品を表す言葉がないぐらい。

功利主義なんて糞くらえだ。低級だとか社会的効用なんかも糞くらえだ。そりゃあ、彼らの立場に立ってみたら、幼い子供が殺人の訓練を受けて、極めて残忍な方法で敵を殺しまくるような映画に社会的効用も正義もあったもんじゃないでしょうから、本作は低級な喜びに過ぎず、社会の向上に寄与できないと考えるのは当然でしょう。

むしろ、エラいさんがたにとってみたら、“百害あって一理なし”といったところでしょう。

そういう考え方もあるよね、と勿論理解は示しますけど。正直、自分はそんなエラさんと趣味について話し合う機会もないし、機会があっても話し合おうとも思わないし。ましてや、説得しようとも思わないので、ぶっちゃけ“映画は面白ければいい”という立場が変わることはありません。

ただもし、その必要に迫られた場合。例えば、“バカ映画を規制しよう”という話が出たら、別の話です。

自分は全力でそういう映画を擁護するために反論するでしょう。その手段は、決して「バカ映画をバカにする奴はバカだ!」という論法ではなく、「表現規制反対!」という功利主義により簡単に否定される論法でもなく、「バカ映画こそ人類全体の進歩と、長期的利益に関与する。」という論拠をでっちあげることになるでしょうけど。

ただ、それは本当に難しい。よって、万一バカ映画が規制の対象になったら、どーしようもないと思う。

規制に対抗する手段としては、バカ映画倫理委員会を作って、自主規制を目的としたバカさ具合のレーティングをしなければいけないでしょう。(『アルマゲドン』とか確実にZ指定になります。)バカ映画は、レンタルビデオ屋の隅っこの“バカ映画コーナー”にひっそりと納められることになるでしょう。

結果、興行収入を見込めないバカ映画を撮る人間はいなくなり、バカ映画は消滅するでしょう。

実際、そんなことはないでしょうし。あったとしてもバカ映画が対象になるわけもないでしょうけど。こういう一見無茶苦茶に見える規制法案をエラいさんたちが通そうとすることも含めて、功利主義のような考え方に基づけば、何の矛盾もなく正当性が出てしまうということは、今回色々気づかされた部分です。

ヒットガールをカッコイイいいと思えば思うほど、そういう無用な心配も生まれてしまう時代なのですね。
逆にいえば、そんな心配が生まれてしまうほど、ヒットガールはカッコイイのです。
てゆか、また映画の内容まったく触れなかったですね。