てすかとりぽか

最近はポケモンのことを書く場所です。

『ぼくのエリ 200歳の少女』 ●ンコ

●ンコがついてたりついてなかったりで解釈が変わってくるお話。

ぼくのエリ 200歳の少女

2008年のスウェーデン映画。トーマス・アルフレッドソン監督。

自分の周囲でいろんな人が絶賛していたのと、「タイトルに偽りあり!」という意味で話題になってた以外の情報は全くなかった状態で観てみました。観る前は、おそらくろくでもない邦題をつけられてしまって困った映画なんじゃないかと勘ぐっていたのですが、そういう意味ではなかったのですね。

ていうか、『バンパイアガール』とか『隣のあの娘は吸血鬼?』みたいなベタな邦題じゃないしね。

最近話題のひどい邦題といえば、『エンジェル・ウォーズ(Sucker Punch)』とかありますけど、ぶっちゃけ日本で公開するのに『サッカー・パンチ』じゃみんな観ないよねーとは思いました。カップルがデートの口実に観に行くような軽いノリの作品の需要が高い日本では、『エンジェル・ウォーズ』が丁度いいです。

そういう意味では、本作もこんなシャレオツな感じの邦題でなくても良かったんじゃないかと。

本作は北欧を舞台にした吸血鬼モノですが、今時流行りのVFXばりばりのヴァンパイアアクションではなく、とっても繊細でもの静かなタッチで描かれた、思春期恋愛ものなんですね。『トワイライト』から“アホ”の要素を抜き去ったら、これぐらい美しい作品になるけど、それじゃ売れなかったろうね。的な。

で、後で調べるとタイトルに偽りありで、「200歳でも少女でもねーじゃん!」って部分ですけど。

日本語版では“少女”とされている娘の●ンコにモザイクが入ってるシーン。モザイクがない原版を見ると、そこには“去勢”の手術跡があり、「実は少女は少年だった!」という話。つまり、本来は“少年同士の性別を超えた愛情の物語”であるところ、日本語版では“少年少女の淡い恋愛劇”として描かれてしまっているという点。

なんだい、元の話の方が腐ったおねいさんが大喜びするようないいお話じゃないかい。

でも、タイトルどおりに勘違いして観たとしても、それはそれで観れてしまうから不思議です。たぶん表層のストーリー部分を誤解していたとしても、感動できる人は感動できてしまう。というか、日本公開版を観て感動してる人のほとんどは、誤解したまま感動してると思います。でも、それでいいじゃんか。的な。

ソレを翻訳者側の無粋と観るか、意図したものかと観るかによっても違ってくるとは思いますけど。

配給者側の気持ちになって考えてみたら、わずか1シーンの露出に拘ることでレーティングを上げてしまったらとても商売になんてならないじゃんと。別にエロで売るような映画でもないのに。で、モザイクかけてみたら、それはそれで違う話になって、しかもそれなりに感動できんじゃね?と。そういう思惑が見えてきたりします。

まぁ、別に●ンコがついてよーがついていまいがでも、物語の焦点はそこじゃねーんだからいいべ。と。

海外で発売されたファミコン版の『ドラゴンボール』で、「亀仙人がパンティーではなくサンドイッチが好き」と設定を改変されたのと同じで、重要なのはそこじゃないからいいべ。って話じゃないかと。いやでも、パンティーじゃなかったとすると、ランチさん登場回の一ネタはどう説明したらいいのかと。

要するに、感動できたんなら、どっちでもいいじゃないですかとゆーお話。

そこで、誤解しながらも感動してる人に対して「ホントはそんな話じゃねーんだよ!このニワカがっ!」っていう自称映画マニアの方が遥かに無粋です。その物語の解釈が正しいかどうかなんて、極論すると映画脚本を見れる立場の人間でないと知りようがないことなんで、そういう不毛な諍いは評論家にでも任せておきましょう。

先日テレビやってた『ドラえもん』の映画観て、そーいう呟きを沢山みて辟易してたので尚更。

でも、原作者が亡くなって以降、原作原理主義者と独自解釈推進派など様々な派閥に別れて、「原作者が言いたかったのはそーじゃない!あーじゃない!」って話をするのは、宗教の分裂段階に似ていて面白いなーとは思いました。そして、原作原理主義者を自称する者ほど、原作をちゃんと読んでいないとゆー。