てすかとりぽか

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『ゾンビランド』 ゾンビが好きな理由

自分のゾンビ好きとなるに至るを、事実そのままに書いています。

ゾンビランド

2009年のアメリカゾンビ映画ルーベン・フライシャー監督。

この監督さんは、あんまりゾンビが好きじゃないのかもしれない。

少なくとも、他のゾンビ映画監督のように、ジョージ・A・ロメロの熱烈なシンパということはなさそうだ。なぜなら、本作におけるゾンビの役割はあくまでも世界の構成要素に過ぎず、メインは結局少年と少女たちの物語だからだ。だからこそ、本作は他のゾンビ映画にはない斬新さと、美しさと、面白さを兼ね備えている。

でも、自分はゾンビが好きだ。ジョージ・A・ロメロに至っては、一番好きな映画監督だ。

なぜこんなにゾンビが好きなのか?ゾンビはこわいものだ。たぶん、世間一般的なゾンビ好きの人は、ゾンビをこわいとは思ってないんだと思う。でも、自分はゾンビがこわい。霊とかUFOとは比較にならないくらいゾンビがこわい。ゾンビの出てくるゲームとか、こわくてやってられない。でも買う。映画も観る。なぜなんだろう。

6歳の時、祖父が死んだ。交通事故だった。

つくば万博の帰りに車のタイヤがパンクして、車線上に出てタイヤを見ようと屈んだ所を、別の車にはねられたらしい。遺体はメチャクチャになっていた。不謹慎かもしれないが、6歳の自分にはソレはメチャクチャになった人間のソレとしか認識できなかった。祖父とは別居して数回しか会ったことはなく、悲しいという感情はなかった。

ただ、人間が死ぬということが、とてつもなく、こわいことだと感じた。

葬儀の際、お棺の上には“脇差”が置いてあった。自分が尋ねるまでもなく、祖母が説明してくれた。アレを置いておかないと、遺体に“悪いもの”が取り憑いてしまうのだと。悪いものが何なのか、悪いものが取り憑いてしまうとどういうことになるのか、その時の自分は知らなかったし、知ろうとも思わなかった。

死ぬよりも、もっとこわいことがあるだなんて、その時に知れるわけがなかった。

葬儀の後、遺体は当然の如く火葬された。人間が死ぬと燃やされてしまうということも、この時知った。なぜ燃やしてしまうのかは、この時知らなかった。その理由を知ったのは、それからしばらく後のことだった。遺体に“悪いもの”が取り憑くと、どうなってしまうのかも、その理由と同時に知ったのだった。

友人のEくんに誘われて、映画館に『バタリアン』を観に行った時、その全てを知った。
(厳密には『コマンドー』を観に行って、その同時上映が『バタリアン』だった。)

人間は死ぬ。そして、死んだ後に“悪いもの”に取り憑かれると生き返ってしまう。そして、他の人間を襲う。そうならないようにするために、人が死ぬとお葬式をやり、悪いものが取り憑かないようにする。そして、二度と生き返らないようにするために、燃やしてしまうのだ。それが、自分の原初的な死生観となった。

自分にとって、死ぬよりもこわいこと。それは死体がよみがえるということだった。

祖父が納められた実家のお墓は、家から目と鼻の先にあり、自分の部屋から見える位置にあった。夕方になると、墓石に夕日が反射して、人魂がいるかのように見えた。これでは、いつ死体がよみがえって、自分を襲いに来るかわかったものではない。何か対策をしなければ。小学生の自分は常にそのことばかり考えていた。

結果、宗教とオカルトにかぶれた。

元々、敬虔な天台信徒である祖母の影響もあってか、般若心経や開経偈を諳んじるぐらいのことはできたこともあり、仏教は勿論のこと、キリスト教ユダヤ教関連の書物を読み漁るようになった。そこに信仰心などというものはなかった。ただ、様々な視点からテキスト化された死生観を識ることで、安心したかっただけだった。

死んだ人間が生き返るようなことはないという、合理的な説明がほしかっただけだった。

しかし、宗教的な側面からその答えにアプローチするには、学校や田舎の市民図書館程度では文献が不足しすぎていた。自然とオカルト方面に流れた。それが結果的に、病をこじらせる形になったのかもしれない。主な情報源はケイブンシャの大百科シリーズだった。なんというおろかな少年だったのだろう。

“ ゾンビ ”という言葉を知ってしまったのだった。

奇しくも、『ゾンビ伝説』の公開年だった。当時10歳の自分は、さすがにホラー映画に出てくるゾンビなんかは架空の存在だとは分かっていた。しかし、『ゾンビ伝説』は、「ゾンビはハイチのヴードゥー教により、実在するものである。」というテーマを扱ったドキュメンタリータッチの作品だった。見事に釣られてしまった。

“ ゾンビ ”は実在するのだ。もう、こわくて夜ねむれなくなった。

さらに、学研の『ムー』などからも悪影響を得た。なにせ、あの学研なのだ。科学的に正しい情報しか載っていないという先入観があった。そんな科学雑誌が、“霊魂”とか“ゾンビ”とか言ってるのだ。「死んだ人間は火葬や土葬の最中に必ず生き返る。そして、苦しみながらもう一度死ぬ。」とか書いてあるのだ。科学的な話として。

発狂しそうだった。その反動で、逆にこわい映画をたくさん観るようになった。

さらに、中二病をこじらせた。H・P・ラヴクラフトとS・キングの熱烈なファンとなり、たぶんその病気はいまだにこじらせたままである。そして、意外なことに、ロメロの『ゾンビ』を観たのは大学に入ってからのことで、それまで『ゾンビ3』とか『サンゲリア』とか、なぜかイタリアゾンビ映画で外堀ばかり埋めていたのだった。

ジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』は素晴らしかった。憑き物が落ちた。

ひどい外堀から入ったのだから当然といえば当然なんだけど。死んだ人が生き返ることの悲しさ、そして可笑しさを描いているはじめての作品だった。少なくとも自分にとっては。もう、こわがることはない。いや、こわいのだけれど、はじめて本当の意味で“ ゾンビ ”というものが好きになった瞬間だった。

死んだ人間が生き返る。この不条理あふれる世の中、そんなこともあるかもしれない。

でも、そんなことがあったってなくったって、生きていくってことは死ぬより大変なことだ。ゾンビに食われるよりも痛いことも辛いこともたくさんある。友達や親族が死んでゾンビになって自分を襲ってくるようなことより、避けがたく辛い苦しい現実なんていくらでも存在する。それをいちいちこわいだなんて言ってられない。

それでも、自分だけは生きていくしかない。そういう覚悟の必要性をゾンビは教えてくれる。

祖父は交通事故でメチャクチャになって死に、祖母は死後一ヶ月放置されて腐乱死体になって死に、祖母の遺体を放置した叔父は警察の精神病院に入っておそらく一生出てこられない。ソレは戦争中にウチの家が赤紙を出す側だったからその報いだ呪いだ「お前の家の人間は全員ろくな死に方をしない」とか言われるけど。

そんな呪いも、ゾンビの前にはささやかな話だ。
だから、自分はゾンビが好きだ。