てすかとりぽか

最近はポケモンのことを書く場所です。

『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』 観てもらうためだけに、映画は撮られている。

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論

いわずもがな、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の作者、荒木飛呂彦先生がホラー映画を語るご本。

まさに、自分の中にある“好ましい映画評論”とゆーのを体現されたようなご本でした。決して、自分がジョジョファンだから、先生のファンだからという理由にマンセーしてるわけじゃございやせんのですよ。いくら荒木てんてーといえども、本業の片手間で書いた映画評なんて大したことないんでしょうとも思ってましたから。

とんでもなかったっす。荒木先生の映画愛パネぇっすよマジで。

そりゃ、ジョジョ読んでたら、先生がどんだけ映画やら小説やら好きなのかってのはよくわかりますけれども。好きなだけじゃなくって、ものすごい勉強家で、膨大な知識量があるっていうのもわかりますけれども。その知識量をひけらかすような真似は一切せず、こうおっしゃられるのですよ。

「一番好きなホラー映画は『ゾンビ』です。」

本著で紹介されている作品は、みんなゴールデン洋画劇場とかで一回は放送してるようなメジャーな作品ばかりです。しかも、一般的にはホラー映画として扱われていないような作品もチラホラ。おそらく、自称ホラー映画オタクの人は本著を読んで、「この先生はニワカだねーwwww」とでも思うかもしれないところですけど。

そんな揶揄嘲笑がありそうなことなど意にも介さず、先生はこうおっしゃられています。

「自分流に解釈した、ホラー映画なるものについて改めて説明しておきます。“観客を怖がらせるために作られた映画。それが何よりもまず、僕にとってのホラー映画です。」

このスタンス。このスタンスこそ、近年失われつつある「作品はジャンルを含めて自分で解釈するもの」という、自分が求めたい作品鑑賞のスタンスです。ジャンルの読み違えは勿論のこと、ストーリーも一切の読み違えを許さない脚本原理主義、それこそが映画評論であるという昨今の流れに投じられた一石と思うのです。

ぶっちゃけ、最近“映画に詳しい人の評論ほど、面白くない”と感じてしまっていたのです。

たくさんの映画を観ている人、とりわけ古い映画に詳しい人ほど、映画評論が単なる“映画史概論”になってしまっています。“過去作品との比較”や“元ネタ言及”がメインになってしまうのです。映画業界に詳しい人の場合は“脚本原理主義”に陥る傾向が見られます。脚本読める立場にいるが故に。

面白くないんです。でも、“映画評論の正しさ”という土俵で勝負すると一番強いのはそういう人なんです。

“誰が一番正しく映画を評論できるか?”ってテーマで喧嘩したら、そりゃ脚本読める人が強いでしょう。でも、だからってその他の評論は全部糞だって話じゃないんじゃないのかな。でも、世間的にはどんどん“正しく映画を観て、理解すること”ばかりが映画評論になってきちゃって、なんだか解せないんですよね。

そんな中、荒木先生ったらメジャーな映画群に対して、自分流の切口でバッサリ言っちゃう。

バッサリとは言っても、決してディスったりしない。むしろ寛容。極めて寛容。世間一般的に「えー?あの作品?」みたいなのも褒めちぎったりしますし。ただ、決して突飛なことを言ってるわけではなく、自分の経験や幅広い知識に根ざした“面白いと思った理由”にすごく説得力があるんですよね。だから、面白い。

一体何が既存の映画評論と違うんでしょう。一言で言えば“謙虚さ”だと思います。

映画に関する知識量ではないです。本著では誰でも知ってるようなメジャーな映画ばかり紹介されていますが、だからといって荒木先生が映画を大して観てないとか、『ジョジョ』読んでる人は言わないでしょう。そこそこマニアックな作品が映画化される以前、原作小説の邦文翻訳前とかに、ネタにしてるものさえあるのに。

“謙虚”なんです。“俺が一番マニアックな映画知ってるレース”に参戦してないだけなんです。

「映画評論家として名を馳せてしまうー!」クラスタの人たちは、みなこぞってこの“俺が一番マニアックな映画知ってる競争”に参戦するんですよね。それがビジネスとして成り立ってる以上は、需要もあるんだろうし全否定はしませんが。それって本来映画評論とはなーんにも関係ないところだと思うのですよ。

映画なんてのは、最も安価な大衆娯楽の一つだと思ってます。9割以上の観客は、「泣けたわー」とか「感動したわー」とか、一過性のアトラクションとして捉えてるもんだと思ってます。そこで、「俺あのシーンの元ネタになった映画しってるわー。名を馳せてしまうわー。」なんて考えてる人はほーんの一握りの人です。

で、後者の人ほど「あいつら感動したーとか言って全然わかってねーわー」とか言っちゃう。

さらに、「元ネタとかわかってこそのー」とか、「脚本どおりの解釈ができてこそのー」とか、映画の感想についてまで勝ち負けをつけたがる。「いや、個々人思うことがあってべつにいいっしょ」とか言おうものなら、「教養を否定したら負けですよ?」とか、あくまでも勝ち負けにこだわる。

そんな上から目線が全く感じられない、それが荒木先生の“謙虚な”評論なんです。

「あのシーンは元ネタがうんたら」とか「オマージュがどーたら」とか鼻につくことは一切言わず、「昔アレと同じ目にリアルで遭って怖かった。だからこの映画怖い。」って、ほんと映画観ながら思ったことそのまんま書いてるんです。少なくとも、自分はこっちのスタンスの方が、“映画を楽しんだ人の良い評論”に思えます。

だからといって、“映画史概論”も“脚本原理主義”も否定するつもりもないです。勝ち負けじゃないし。

ただ、あんまりにも(Twitterでいろんな人の意見が見れるようになったせいもあるけど)“映画を楽しむ”ことより、“映画を利用して自分を他人より上に見せる”ことが主になってる人がどーしても多いように感じてしまって。そこで荒木先生の“率直な映画愛の篭った”ご本を読んで、いろいろと考えてしまったわけです。

あと最後に、荒木先生の映画評論のスタンスは、その創作のスタンスそのままなんだと思います。

先生の漫画に登場する台詞にこそ、先生が勝ち負けにこだわって書いてなんかないと理解できます。さらに、同じく創作者である映画の製作者側も「脚本を正しく理解してほしい」とか「元ネタを調べてほしい」とか思ってないし、客同士勝ち負けとかどーでもいいという点では、大きく違わないんじゃないかと思います。

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この岸部露伴が、金やちやほやされるために、
マンガを描いてると思っていたのかァーーーーッ!!

ぼくは、『読んでもらうため』にマンガを描いている!
『読んでもらうため』ただそれだけのためだ。

単純なただひとつの理由だが、それ以外はどうでもいいのだ!

(『ジョジョの奇妙な冒険』34巻 160頁より)
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映画製作者が望むのは、どう観てもらうかじゃなく、『観てもらうこと』だけということです。