てすかとりぽか

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『桐島、部活やめるってよ』 モンハンを失ったPSP

夏場忙しくて全然映画館行けなかったんですが、猫も杓子も「桐島、桐島」言ってたので。でも、まだ飯田橋でやってたんで、今更ながら観てきました。観てよかった。邦画的には大大大傑作です。とりあえず、ちょっとネタバレも含みつつの感想になりますが、色々考えることが多い映画ですね。

桐島、部活やめるってよ

2012年の日本映画。吉田大八監督作品。同名小説の映画化版となります。

「どんな話なのか?」という点では、タイトルの通り「桐島がバレー部をやめる話」そのまんまなんですが。「それがなんで物語として面白くなるのか?」というのは、映画を観ているうちにじわじわ分かってくるという、知的好奇心をくすぐる作品なんですね。だからこそ、何も知らずに観た方が当然楽しめます。

ただ、物語の構成やその意図に気づかなくとも、フツーに面白いのが本作のまた素晴らしいところです。

キャッチコピーに「あなたの記憶を刺激する」とあるように、誰もが経験している「高校生活あるある」な話なんですね。例えば、本人のいないとこでの女子の陰口とかね。男子校に通ってた自分の記憶にはねーけど。ヲタ友達によるリア充死ねトークとかね。ヲタの友達すらいなかった自分の記憶にはねーけど。

記憶はなくとも「一般的なニンゲンの高校生活ってのはこういうものなんだ!」とSFとして楽しめました。

人間の記憶というものは、実体験だけを基に形成されるものではなく、映画やドラマや小説や漫画を読むことででも擬似体験的に生成されます。だから、本来体験しえないSFやファンタジーも、その知識を集積することで“実体験に近い記憶”を形成し、実体験に基づいた「あるある」として楽しめるようになるのですね。

ただ、「自分はこのスクールヒエラルキーの底辺にすらいなかった…。」ことに気づいて絶望しました。

本作は、『ハイスクールミュージカル』に登場するようなモテ系男女や運動部で構成されるハイヒエラルキー層(ハイランダー)と、非モテ系男女や文化部で構成されるローカスト(地底人)層が「これでもかと」明確に区別されて描かれる、極めて差別主義的(悪い意味でなく)な物語です。

本来はどちらかの陣営に感情移入して観るものなんでしょうけど、自分はそのどっちでもなかった…。

…いい加減自分の過去を穿り返して自爆するのはやめにして、「どんな映画なのか?」の話に移ります。本作は「桐島という人がいなくなる」ことにより、これまで彼に依存して来た人々が狂いはじめるという話です。彼の実力に依存するバレー部員、彼の友達であることをステータスとする友達たち、そして恋人とその友達たちが。

“桐島というアイデンティティを喪った人たちの織り成す、アイデンティティ喪失の物語”になります。

アイデンティティ喪失の物語自体は割とよくあります。大事な人を失った人の物語、記憶を失った人の物語、役割を失った人の物語とか『トイ・ストーリー』なんかもこれ系です。喪失したものへの依存度が高ければ高いほど、喪失がもたらす危機(アイデンティティクライシス)は大きくなり、ドラマとしても面白くなります。

本作に登場するリア充どもは、桐島への依存をもって“自分の地位”を保持しています。

PSPがモンハンに依存している様に、島根県鳥取県に依存している様に、彼らは桐島あってこその彼らであり、だからこそ「桐島が部活をやめる」、たったそれだけのことで脆くもその牙城は崩れ去ってしまうのです。当然、彼らは桐島を探します。でも、見つからない。自分が見つからない。桐島の喪失は彼らに暴走を促します。

彼らの暴走は、ローカストである映画部の撮影を邪魔します。でも、映画部は元々桐島なんか知らない。

「映画が好きで映画を撮る」つまり自分のアイデンティティを自分で確立出来ている映画部の前田君。彼のファインダーには、そんなリア充どもの暴走が滑稽に映ります。奇しくも、映画部が撮影しているのは“ゾンビ映画”。顧問教師の反対を押し切って撮影するそのゾンビ映画は“強烈な自我の象徴”です。

これは“自発行動的ゾンビ VS 非自発行動的ゾンビ(哲学的ゾンビ)”という皮肉で、笑うとこです。

哲学的ゾンビ”は心の哲学で使われる言葉で、デイヴィッド・チャーマーズという人がクオリア(主観的体験が伴う質感)の説明に用いた思考実験で有名な言葉です。「もしかしたら、痛さや悲しみという感情があるのは世界中で自分独りだけで、自分以外の人間はロボットなんじゃないか?」って考えたことありますよね。

「自分以外の人間は、ただ状況に反応して自動的に動いているだけじゃないだろうか…?」

「外面的には、普通の人間とまったく同じように振舞いながら、内面的には、意識を持たない=主観的体験を持っていない人間」のことを、“哲学的ゾンビ”と呼びます。ディビット・チャーマーズは、この哲学的ゾンビという喩えを用いて、「主観的体験こそが世界にとって不自然な存在ではないか?」と問いかけました。

桐島という歯車を失っただけで機能不全に陥るリア充どもは、所詮は意識をもたないゾンビなんです。

モンハンを失ったPSPも(自主規制)兎も角、本作は我々ローヒエラルキーこそが自我同一性を確立しえた優れた人類であり、セックスリア充の糞どもは意識のないゾンビなのだ、ロボットなのだ、BOTなのだ、NPCなのだ、近似アルゴリズムであり巡回セールスマン問題であり粘菌コンピュータなのだ。

あの天パとか我ら選ばれた優良種たる映画部に管理・運営されてはじめて生き延びることができる。

これ以上あの天パにかすみちゃんの手を握らせておくのは人類そのものの存亡に関わるのだ。バレー部の無能なるゴリラ共に思い知らせ、明日の未来のために我が映画部は起たねばならんのである!!てゆか、かすみテメーもだ!!裏切ったな!僕の気持ちを裏切ったな!!最後にこれだけは言っておく…。

ロメロぐらい観とけッ!!