てすかとりぽか

最近はポケモンのことを書く場所です。

『悪の教典』 トップアイドルと権謀術数

結構前に観たんですが、まだ感想書いてなかったので。ネタバレは本質的な部分を除いて。

悪の教典

2012年の日本映画。三池崇史監督作品。貴志祐介原作小説の映画版です。

原作小説も未読で特に予備知識もなく観に行っちゃったので、その予想の斜め上というかほぼ直角真上に近い内容でとても楽しめました。勿論、内容が内容なだけに、知らずに観に行って大変な目に遭った方も多いでしょうね。トラップ映画という意味合いでは近年トップクラスではないでしょうか。

「私はこの映画が嫌いです」と言って試写イベントをドタキャンしたトップアイドルの方もいました。

そのドタキャン騒ぎ事態が話題作りのためのヤラセ、炎上マーケティングだったんじゃないかとも言われていますが。個人的にはそのアイドルの方のお立場を鑑みるのであれば、どっちにしても本作を手放しで薦めることはできないんじゃないかと思います。というか、本作に関わること自体が危険ですよね。

なぜなら、本作は主人公の教師による凄まじい“権謀術数”を描いた作品だからですね。

主人公の蓮実先生は、生徒から絶大な人気を誇り、職員やPTAの間でも信頼の厚い高校教師。容姿端麗で情に厚く、スポーツ万能で頭脳明晰。でも、その実悪魔のような策略家で邪魔者は容赦せず排除するサイコキラーで、自身の“理想の王国”を築くために謀略の限りを尽くすというのが本作の概要になります。

彼が用いる“権謀術数”の数々が、本作一番の見どころでもあります。

“権謀術数”とは、主に社会や組織などの集団において物事を利己的な方向へ導き、自身の地位や評価を高めるために取られる手段や技法、およびそれが用いられる様を表す総称です。初出は中国宋代の儒学者朱子の『大学章句序』、「権」は権力、「謀」は謀略、「術」は技法、「数」は計算を意味するとされます。会話上のテクニックや気づかいなどの小さなもののみならず、時に賄賂や恐喝、暗殺などの直接的な手段も含みます。

現代においては多くの場合、集団において個人が負う役務そのものによってではなく、「それ以外の手段によって集団内の地位・評価を高めようとする行為」を特に指して言います。 例えば組織内において「自身の発言力を高めるために対立する個人を組織から排除」しようとしたり、あるいは「自身の功績を実際以上に大きく見せるべく印象を操作する」などの場合がそれに当たります。

そんな“権謀術数”の手法を一つ一つわかりやすく教えてくれるのが蓮実先生なのです。

さて。そんな手法が本作によって公になることによって都合が悪くなる人たちもいますよね。当然ながら、今現在進行形で「個人が負う役務以外で集団内の地位・評価を高めている人」や「自身の発言力を高めるために対立する個人を組織から排除している人」とかですよね。“権謀術数”の実行者たちです。

権謀術数的に考えると、その実行者は「この映画を好評価・推薦することは避けなければならない」のです。

はだしのゲン』という漫画作品の評価が、その評者の持つイデオロギーの方向性によって真っ二つに分かれるような現象と同じですね。本作を「評価しない」とする立場の人は、言わずもがな「自分は権謀術数に長けた人間で、その手法を認知させるような作品は他人に見せたくない」と言っていることになります。

「命が簡単に奪われていくたびに、涙が止まりませんでした…。」

とか涙ながらに言うわけです。その姿を見た人たちも同調するわけです。見事なまでの人身掌握術です。権謀術数の基本は情報操作であり、“事実を歪曲させる手法”である場合が圧倒的に多いのですが、そもそもこの場合は「簡単に命が奪われる」という部分が“事実の歪曲”にあたります。

蓮見先生、割と殺すのに苦労してますよ。決断するのに座りこんで悩んだりします。30秒ぐらい。

「一発で二人同時に殺すのは難しい」とかも言ってます。簡単じゃないんです散弾銃で殺すの。本作のは水平二連銃なので速射性は皆無だから対多人数に向きませんし。スラッグ弾ではないので中距離以上では弾道制御が難しく、散弾の着弾パターンがドーナッツ状になり中心部が薄くなるのでエイムにもコツがいります。

“映画好き”を自称するなら、尚更アレを見て「簡単に命が奪われる」という曲解はしないと考えます。

本作に対する評価者の反応がそのまま“その人の本性”を炙り出すパッチテストのような機能を持っているという点で、本作はなんと素晴らしい作品なのかと自分は感激しております。こうやって上から分析視点で語ることによって、自分をその対象から除外しようとかそんな邪なことは、絶対に考えていないですよ。

『桐島、部活やめるってよ』 モンハンを失ったPSP

夏場忙しくて全然映画館行けなかったんですが、猫も杓子も「桐島、桐島」言ってたので。でも、まだ飯田橋でやってたんで、今更ながら観てきました。観てよかった。邦画的には大大大傑作です。とりあえず、ちょっとネタバレも含みつつの感想になりますが、色々考えることが多い映画ですね。

桐島、部活やめるってよ

2012年の日本映画。吉田大八監督作品。同名小説の映画化版となります。

「どんな話なのか?」という点では、タイトルの通り「桐島がバレー部をやめる話」そのまんまなんですが。「それがなんで物語として面白くなるのか?」というのは、映画を観ているうちにじわじわ分かってくるという、知的好奇心をくすぐる作品なんですね。だからこそ、何も知らずに観た方が当然楽しめます。

ただ、物語の構成やその意図に気づかなくとも、フツーに面白いのが本作のまた素晴らしいところです。

キャッチコピーに「あなたの記憶を刺激する」とあるように、誰もが経験している「高校生活あるある」な話なんですね。例えば、本人のいないとこでの女子の陰口とかね。男子校に通ってた自分の記憶にはねーけど。ヲタ友達によるリア充死ねトークとかね。ヲタの友達すらいなかった自分の記憶にはねーけど。

記憶はなくとも「一般的なニンゲンの高校生活ってのはこういうものなんだ!」とSFとして楽しめました。

人間の記憶というものは、実体験だけを基に形成されるものではなく、映画やドラマや小説や漫画を読むことででも擬似体験的に生成されます。だから、本来体験しえないSFやファンタジーも、その知識を集積することで“実体験に近い記憶”を形成し、実体験に基づいた「あるある」として楽しめるようになるのですね。

ただ、「自分はこのスクールヒエラルキーの底辺にすらいなかった…。」ことに気づいて絶望しました。

本作は、『ハイスクールミュージカル』に登場するようなモテ系男女や運動部で構成されるハイヒエラルキー層(ハイランダー)と、非モテ系男女や文化部で構成されるローカスト(地底人)層が「これでもかと」明確に区別されて描かれる、極めて差別主義的(悪い意味でなく)な物語です。

本来はどちらかの陣営に感情移入して観るものなんでしょうけど、自分はそのどっちでもなかった…。

…いい加減自分の過去を穿り返して自爆するのはやめにして、「どんな映画なのか?」の話に移ります。本作は「桐島という人がいなくなる」ことにより、これまで彼に依存して来た人々が狂いはじめるという話です。彼の実力に依存するバレー部員、彼の友達であることをステータスとする友達たち、そして恋人とその友達たちが。

“桐島というアイデンティティを喪った人たちの織り成す、アイデンティティ喪失の物語”になります。

アイデンティティ喪失の物語自体は割とよくあります。大事な人を失った人の物語、記憶を失った人の物語、役割を失った人の物語とか『トイ・ストーリー』なんかもこれ系です。喪失したものへの依存度が高ければ高いほど、喪失がもたらす危機(アイデンティティクライシス)は大きくなり、ドラマとしても面白くなります。

本作に登場するリア充どもは、桐島への依存をもって“自分の地位”を保持しています。

PSPがモンハンに依存している様に、島根県鳥取県に依存している様に、彼らは桐島あってこその彼らであり、だからこそ「桐島が部活をやめる」、たったそれだけのことで脆くもその牙城は崩れ去ってしまうのです。当然、彼らは桐島を探します。でも、見つからない。自分が見つからない。桐島の喪失は彼らに暴走を促します。

彼らの暴走は、ローカストである映画部の撮影を邪魔します。でも、映画部は元々桐島なんか知らない。

「映画が好きで映画を撮る」つまり自分のアイデンティティを自分で確立出来ている映画部の前田君。彼のファインダーには、そんなリア充どもの暴走が滑稽に映ります。奇しくも、映画部が撮影しているのは“ゾンビ映画”。顧問教師の反対を押し切って撮影するそのゾンビ映画は“強烈な自我の象徴”です。

これは“自発行動的ゾンビ VS 非自発行動的ゾンビ(哲学的ゾンビ)”という皮肉で、笑うとこです。

哲学的ゾンビ”は心の哲学で使われる言葉で、デイヴィッド・チャーマーズという人がクオリア(主観的体験が伴う質感)の説明に用いた思考実験で有名な言葉です。「もしかしたら、痛さや悲しみという感情があるのは世界中で自分独りだけで、自分以外の人間はロボットなんじゃないか?」って考えたことありますよね。

「自分以外の人間は、ただ状況に反応して自動的に動いているだけじゃないだろうか…?」

「外面的には、普通の人間とまったく同じように振舞いながら、内面的には、意識を持たない=主観的体験を持っていない人間」のことを、“哲学的ゾンビ”と呼びます。ディビット・チャーマーズは、この哲学的ゾンビという喩えを用いて、「主観的体験こそが世界にとって不自然な存在ではないか?」と問いかけました。

桐島という歯車を失っただけで機能不全に陥るリア充どもは、所詮は意識をもたないゾンビなんです。

モンハンを失ったPSPも(自主規制)兎も角、本作は我々ローヒエラルキーこそが自我同一性を確立しえた優れた人類であり、セックスリア充の糞どもは意識のないゾンビなのだ、ロボットなのだ、BOTなのだ、NPCなのだ、近似アルゴリズムであり巡回セールスマン問題であり粘菌コンピュータなのだ。

あの天パとか我ら選ばれた優良種たる映画部に管理・運営されてはじめて生き延びることができる。

これ以上あの天パにかすみちゃんの手を握らせておくのは人類そのものの存亡に関わるのだ。バレー部の無能なるゴリラ共に思い知らせ、明日の未来のために我が映画部は起たねばならんのである!!てゆか、かすみテメーもだ!!裏切ったな!僕の気持ちを裏切ったな!!最後にこれだけは言っておく…。

ロメロぐらい観とけッ!!

『ホビット 思いがけない冒険』 没個性主人公によるハーレム考

ホビット 思いがけない冒険

2012年のニュージーランド・アメリカ映画。ピーター・ジャクソン監督。

ひょんなことからホビット族の青年ビルボ・バギンズの家に押しかけてきた魔法使いと13人のドワーフたちが繰り広げるハチャメチャでハートフルな冒険ファンタジー。トロールやオークや闇の森のエルフも現れて、さらにはエルフの奥方ガラドリエルと魔法使いのムフフな関係も明らかに…。

ドワーフ”の部分を“妹”に差し替えるとハーレムアニメかラノベになるようなお話ですね。

いや、むしろ“ドワーフ萌え”の人たちにとっては十分ハーレム的なのかもしれません。アメリカの家とかふつーに庭ドワーフだらけだったりするほど、奴らドワーフ好きですからね。日本だとドラクエ10で「ドワーフ緑色で気持ち悪い」とか言われてトップクラスの不人気種族だったりするわけですけど。

なので、全米初登場1位にも関わらず、日本で奮ってないのは多分ドワーフに対する許容性の問題なのでは。

ただ、個人的には原作小説の大ファンでありますので、冷静かつ客観的な評価などはなからするつもりもなく(できもせず)、『指輪物語』に引き続きトールキン×ピージャク世界を全力で堪能することができました。ちなみに原作の小説『ホビットの冒険』は、J・R・R・トールキンの小説『指輪物語』の前日譚にあたります。

ロード・オブ・ザ・リング 旅の仲間』をエピソード4とするなら本作がエピソード1にあたるわけですね。

さて、そんな本作の主人公ビルボは極めて“没個性的なキャラ”として描かれています。それは『指輪物語』の主人公フロドにも共通する点ですが、“無鉄砲な冒険家を幾人か生み出したトゥック家の血筋”という以外は、特に平凡で、日和見主義で、現実主義なホビットとして、本作の主人公は描かれています。

ハーレムにして、主人公の没個性。ますます「それなんてラノベ?」って内容かと思います。

でも、こうした物語の構成要素こそ、本作や『指輪物語』が長年に渡り多くの人々に愛されてきた所以だと感じます。「主人公が八面六臂の無双キャラじゃないからつまらない。」とか「主人公がウジウジしてるだけで成長がないからダメ」とか言う人もいますが、むしろその逆だからこそいいんじゃないんでしょうか。

そもそも、“没個性主人公によるハーレムアニメがなぜ好まれるのか?”という話をしますと。

【1】読者の感情移入対象にしやすい。

ハーレムものを好む読者は非リア充非モテと呼ばれる人たちです。現実世界では個性もなく、モテない故に二次元世界に逃避・代価を求めるのです。そんな自分らが感情移入しやすいのは、イケメンの無双キャラなんかではなく、没個性で冴えない男である必要があるのです。あれ、なんか目から水が出てきた。

【2】ヒロインの純潔価値を高める。

ハーレムものにおける理想的なヒロイン像は様々あれど、共通しているのは“純潔処女である”ことです。アバズレのビッチヒロインなど声優ブログ含めて炎上の対象でしかありません。そんな純情ヒロインが、何の取り柄もなく、恋愛にも奥手な自分らを好きになり、純潔を捧げるという点が魅力なのです。デュフフ。

昨今のライトノベルが「そんなんばっか」になった結果が示すとおり、“没個性主人公によるハーレムアニメは売れる”のは紛れもない事実です。ただ、それが“最近の話か?”と呼ばれると、個人的には違うと思います。『ホビットの冒険』の時点、さらにはもっと昔から、こうした需要はあったのではないかと考えます。

原作小説にある一節からも、トールキンはその需要を意図して描いているとも考えます。

“ 「なにしろあんたはその手で予言を実現させたご本人じゃからな。ところであんたは、あの冒険がすべて、ただ運がよかったせいでとか、わが身かわいさのあまりとか、そんなことできりぬけたと思っとるのじゃなかろうね。あんたは、まことにすてきな人なんじゃよ、バギンズどの。わしは心からあんたが好きじゃ。だがそのあんたにしても、この広い世間からみれば、つまりはただ一この小さな平凡なひとりにすぎんのだからなあ!」 『ホビットの冒険』より”

力がない小さな一介のホビットであっても、世界を変えることができる。歴史を作るのは英雄ばかりではなく、平凡な個人であったりもする。その意図するところは、ハーレムアニメやライトノベルと大きく違うところではないと思います。感情移入を促し、そして本命ヒロイン(本作ではガンダルフ)がデレた時の価値を高めます。

「わしは心からあんたが好きじゃ。」ですからね。ガンダルフの中の人的にも深い言葉です。

『プロメテウス』 出産ギャグ

プロメテウス

2012年のアメリカ映画。リドリー・スコット監督。

自分の中で2012年度公開作品の中で暫定No.1ヒットです。

にも関わらず、まだ感想書いて無かったので、年末ランキング発表とかする際に恥ずかしいから今更駆け込みで書いてるとかそんなんじゃないですからね。いや、ほんとまじでコレ観た当時その面白さに舞い上がってたんですけど、滅茶苦茶忙しくて文字に起こせてなかったんですけど、まぁいいや。

確かに、映画として観ると、それはもう酷い映画だと思うんです。

…といきなり予防線張りから入るのは、本作が割と世間一般的に“酷い映画”として認識されてると知ってるからなんですけど。そりゃあ、“人類の最大の謎、それは「人類の起源」!”とか壮大なキャッチコピーで、この内容の映画を観せてしまうのは、ぶっちゃけ“詐欺”に近いですよ。

何が“「人類の起源」を検索してはいけない”だよッ!

「蓮コラ」って検索してはいけないと同じノリかよッ!他にも、検索してはいけない言葉としては、「赤い部屋」とか「トミノの地獄」とか「アステカの祭壇」とか色々ありますけどね。ちなみに、「人類の起源」で検索しても『プロメテウス』はあんま上の方に出てこないんですけどね。

「エイリアンの前日譚なのかな?」って期待をしても、それは裏切られます。

確かに、「エイリアンの前日譚ではある」と製作サイドからの言及はあるのですが、正直エイリアンファンとしては「冗談キツいよッ!」と突っ込みたくなる程、『エイリアン』シリーズとは雰囲気から何から別モノに仕上がってるんですね。むしろ、エイリアンが好きな人程怒るんじゃないかな…と思えるほど。

ただ、自分はエイリアンファンというよりは、H・R・ギーガーファンなのです。

H・R・ギーガーは『エイリアン』は元より、『スピーシーズ 種の起源』や『キラー・コンドーム』、『帝都物語』、ゲームでは『邪聖剣ネクロマンサー』などのアートデザインを出がけておられる、自身が崇拝する“神”の中の一人にあらせられます。画集『ネクロノミコン』も愛読書でございます。

本作は、エイリアン臭は抑え目なのに対し、その美術部分は煮汁を煮詰めたように、濃いのです。

『エイリアン』にも登場した宇宙人(エンジニア)たちの宇宙船、そのコックピット、フェイスハガー系の寄生生物とその生態、その全ての様式美が“ギーガー煮汁”臭さ満載で匂い立つ、それが本作の世界なのです。高尚な言い方をしてますが、ギーガーは性器をモチーフにしたアートが得意ですので。

元も子もな言い方をするなら、チンコみたいな形した奴がいっぱい出てくる映画です。

もう、まんまです。チンコ以外の何物でもないです。チンコの中からチンコが出てくるような素晴らしい世界です。それでいて、“生殖”を強く絡ませた脚本も素晴らしい。その部分は度が過ぎていて、完全に“SFホラー映画”から離れて“生殖ギャグ映画”になってしまっているわけですが。

だから、『エイリアン』よりは、むしろ『スピーシーズ』に近いんじゃないんでしょうかね。

スピーシーズ』にはトラウマがありまして。そもそも、『エイリアン』関連映画のような宣伝してたので、借りてきて家族と一緒に見ちゃいましたわ。その時の寒さといったら…。思い出しただけで嫌な汗でてくるわ…。そんな汗と涙とイカ臭さに溢れた本作。腹の底から笑わせていただきました。最高です。

いやー、ラスト。あんな感動しない出産シーンというか“出産ギャグ”は未来永劫ない気がします。

『アベンジャーズ』 pixivでロキソーを検索

アベンジャーズ

2012年のアメリカ映画。ジョス・ウィードン監督。

マーヴル・コミックの同名作品を元に、実写映画版『アイアンマン』、『インクレディブル・ハルク』、『アイアンマン2』、『マイティ・ソー』、『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』から成るスーパーヒーロー映画のクロスオーバー作品になります。

完全に夏のお祭りに乗り遅れて、今さらブルーレイで観賞させていただきました。

一応、自身は関連作品は全て観た上で観たので、そのクロスオーバー作品としては非常にまとまりよく(クロスオーバー作品て大抵どれか一極推しになりますからね。)、各キャラの魅力を引き出せていると好感を持てました。ハルク好きのハルキストとしては、ハルクの扱いについて心配ではありましたので。

ただ、他作品観ないで楽しめるか?って言われると、お世辞にも大丈夫とは言えないと…。

そういう意味では、楽しむためのハードルがチョイ高め(少なくとも、アメコミを特に読むこともなく、映画も頻繁にみない一般的な方にとっては)なので、万人にお勧めできるかっていうとそーでもない作品になっちゃってるのが、正直残念なところかなあと思いました。

あと、正直音量の大小の差が大きすぎて、何度も音量の上げ下げが必要だったのも…。

しゃべり声に対して戦闘音や爆発音が大きすぎたり、でも音量下げると今度はキャップの戦闘音だけ聞こえなくなったりと…。キャップ好きなんですけどね。この中では、ハルクの次に好きですね。『マーヴルVSカプコン』では、ハルク・キャップ・スパイディ使ってましたから。

今考えると、自分がマーヴルに興味を持ったのは『マーブルスーパーヒーローズ』という格闘ゲームからなので、その時がキャップとアイアンマンを知った最初ですね。ハルクは夕方テレビでやってたし、スパイディは東映の特撮があったしね。『X-MEN』もゲームから入ったクチです。

ハルクが好きなのは、その夕方やってたテレビドラマ『超人ハルク』をずっと観てたが故です。ちょうど同じ枠でやってた『特攻野郎Aチーム』と『ナイトライダー』は、自分の中でセットで大好きなアメリカドラマになります。あーあと、なんか中途半端に大きいモノが暴れるのは観ていて楽しいですね。

話を映画に戻しますが、ロキの扱いひどい。ひどすぎ。(褒め言葉です。)

これは萌える。ロキソー萌ゆる。冬コミもかつてなく捗ります。pixivで「ロキソー」を検索。

『エヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 ネタバレあり考察

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

2012年の日本のアニメ映画。庵野秀明監督作品。

>>ネタバレなし版の感想はこちら

ネタバレなしの方に書きましたが、本作は別に理解できなくとも「巨大ロボットが飛んだり跳ねたりする映像見て楽しめればそれでいい」と思っていますし、むしろ「娯楽の域を超えて依存の対象とすること」、「物語の構成や単語にメタファーを求めたり、考察することは製作者の意図に反する下種な考え」と思っています。

と予防線を張った上で、与太話として“考察(笑)”をするのは、もはや儀礼の範疇かなと。

とはいえ、まだ観終わってから2時間ぐらいしかたってないので、考察なんておこがましいにも程がありますが、なんとなーく今の高揚感を駄文として残しておきたいなという本旨です。うんならまず、ストーリーの本筋を思い返してみませう。ぶっちゃけ間違ってても後で直さないと思う赤っ恥覚悟です。

      • -

【あらすじ】
前作『破』のラスト、初号機によるニアサードインパクトの後、初号機はシンジを内包したまま衛星軌道へ封印。ネルフは解体。14年後。ゲンドウにより新たに組織されたネルフが13号機を使ったフォースインパクトを画策。ミサト他元ネルフメ面子はネルフ打倒の為の組織「Wille(ヴィレ:独語で意思の意)」を設立。

シンジは初号機とともにWilleに救出される。14年の月日とサードインパクトの引金となったシンジと他メンバーとの確執。Willeは初号機を憑代とした巨大戦艦(艦隊?)「Wunder(ヴンダー:独語で驚異の意)」を起動、使途を殲滅する。しかし、シンジはレイを求めて0号機と共にネルフへ。

ネルフで出会ったレイにコレジャナイ感を抱き絶望するシンジ。逆にカヲルくんとはピアノを介して仲良しになるが、サードインパクトが自分のせいとも知らされさらに絶望。カヲルくんに世界の再創生を促されたシンジは、複座式の13号機に二人で乗り込み、ロンギヌスとカシウスの槍を抜きに行くのだが…。

(なんかどうもこの変がよくわからないんだけど)どうも槍がカヲルくん的にコレジャナイ。ただ、世界の再創生を望むバカシンジ(ガキシンジ)が構わず引き抜いちゃったせいで、フォースインパクトが起きそうに。あと全編通してアスカとマリががんばる。だいたいそんな感じ。

      • -

個人的に気になった点として、まず今回の物語のキーワードとなっている「カシウスの槍」。

ロンギヌスの槍」なら、いわずもがな磔刑にされたキリストを刺したローマ兵士の名のつく聖槍で、エヴァンゲリオンの世界ではアンチATフィールド効果を持つ武器として知られていますが、じゃあ「カシウスの槍」ってなんなんでしょうね。下記はその一説にあたります。

旧約聖書』「創世記」に出てくる鍛冶師トバル・カインが天から落ちた金属で作った槍が「ロンギヌスの槍」と言われてますが、それが紆余曲折した後、ローマの将軍グエナウス・ポンペイウスの部下がソレを発見。カエサルに贈られ、さらにガリア征服の際、勲功を上げた兵士ガイウス・カシウスの祖父に与えられます。

槍はさらにユダヤの地で処刑を行う百人隊長ガイウス・カシウスに伝わります。その後、キリストの体を貫いたとされる「ロンギヌスの槍」は聖遺物(聖槍)として崇められ、カシウス家に大切に受け継がれたそうです。つまり、「カシウスの槍=ロンギヌス槍の別名」ということになります。

もう一つ、先に名が出たカエサルつながりで、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスという人がいます。

「ブルータスお前も可」で有名なマルクス・ユニウス・ブルトゥスと共にカエサル暗殺を首謀した人物ですね。ローマ内戦では元老院派に組してガイウス・ユリウス・カエサル派と対立した人です。最終的にはカエサルの後継のアントニウスに追い込まれ、戦いの中で自軍が全面的に敗れていると形勢を誤解した上で自害してます。

神曲』ではイスカリオテのユダと共に地獄の最下層に配置されてるワースト・罪人として有名です。

ん。「内戦」・「形勢を誤解」・「自害」あたりのキーワードになんかむず痒いものを感じます。シェイクスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』は、カエサルの陰謀と死の他に、ブルトゥスの「名誉欲」・「愛国心」・「友情の間の葛藤」を描いていることも有名ですが、なんかそのへんに『Q』につながる何かを感じます。

『Q』は言うまでもなく「シト新生(死と新生)」の再翻訳版と呼べる作品ですが、『ジュリアス・シーザー』もまた、新しいローマのために死を求めたり求めなかったり、ブルトゥスとカッシウスが「アントニウスを殺すかどうか」で対立したり、さらにアントニウスと「カエサルを殺した理由」の上で対立したり、

どっちも「個々人が自分の望む世界のために、死をどうこうする話」なんですよね。

要するに、今回あえて「カシウスの槍」という呼称を持ち出した理由として、単純に「ロンギヌスの槍の別名」というだけでなく、ローマ史における悲劇をモチーフにした物語構成にしてみたかったんじゃないかな。ホラ、最近塩野七生とかテルマエとか人気じゃないすか。ね。

とりあえず、自分の浅はかな考察は程ほどに、他のプロの人たちの考察が楽しみですね。

『エヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 ネタバレなし

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

2012年の日本のアニメ映画。庵野秀明監督作品。

映画感想書くの久々すぎてブログに広告出ちゃってましたが。本日朝一で観ていろいろ書きたくなったので。

とはいえ、これからご覧になる方は何も知らずに観た方が楽しめると思うので、ネタバレなしの方向性で。ただ、本作に関しては“完全に風呂敷広げ直し”のお話なので、ネタバレ回避すると何も言えなくなっちゃう。風呂敷云々の話さえ下手すれば「ネタバレすんなぶっ刺すぞコノヤロー!」みたいに言われるから怖い。

だもんで、本当内容に全く触れない感想ですが。

正直「滅茶苦茶面白かったけど、滅茶苦茶よくわからない」というのが正直なところです。まぁ、エヴァンゲリオンらしいといえばらしいので、それでいいと思うんです。巨大ロボットが飛んだり跳ねたりしてなんか悪い奴と戦ってるの見るだけでなんか楽しいじゃないっすか。しかも、最高峰の作画技術でもって。ね。

「表層のシナリオも理解できない奴は語るな」的な最近の映画界隈の空気は好きじゃないです。

そも、自分がガキの頃初めて好きになったアニメは『機動戦士ガンダム』ですが、当時は連邦とかジオンとか独立戦争がどーとか全然わからなかったけど。「なんか青いのでてきた!グフだって!つえー!」みたいな感じで、単純に映像を楽しんでたよーな気がします。難しいこと考えずに。ね。

庵野監督だっておっしゃってますよね。(以下引用)

“僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです。作品自体を娯楽の域に戻したかった。ただ、今はそれ(現実逃避するオタクへの批判)をテーマにするのは引っ込めています。そういう人々は言っても変わらない。”

物語の構成や出てくる単語になんらかのメタファーを仄めかすことは演出であって、そこに本質的な答えはない的な話もどっかでしてたと思います。だから、理解しようとしても理解できない「答え」はどうしても残る。ただ、その「答え」に執着せず、ただ「娯楽」として楽しめばいいという物語として作られています。

その「理解できなくても楽しめればいい」という姿勢を、「教養を否定する考え方だ!」と拒否する人の意見も当然わかります。ただ、「映画には答えは一つしかない」、「それ以外の答えは断固排除すべき」、「異分子は殴りつけてもいい」という昨今の“喧嘩型映画評論”の流行には辟易してしまいます。

そーゆーわけで、ごれからご覧になる方には「肩の力抜いて楽に見ましょう。」とお勧めいたします。

      • -

とはいうものの、この観賞後の「火照り」をどうにかする意味で、“考察(笑)”はやっぱりやってみたいと思うわけですよ。もはや、“通過儀礼”とでもいいますか。そういうわけで、ネタバレ&考察も書いてみました。くれぐれも、観賞後にご覧くださいますよう、お願いいたします。

>>『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 ネタバレあり考察