てすかとりぽか

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『時をかける少女』

時をかける少女』日映画

2006年。筒井康隆原作。細田守監督。
マイミクさんたちの間で人気なので見てきた。
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平日の午前中で短館上映なのになんかもりのすごいの人いる。
なんか眼鏡腐女子が安くなる眼鏡腐女子キャンペーンのおかげらしい。

そして、すごいお年寄りが多い。
テアトル新宿は入場が整理券番号順になるのですが、
その1番から15番ぐらいが、全部ものすごいおばあちゃんの団体。
巣鴨でも比叡山でもないのに、この暑い中を。
時かけ』をみるために。

きっと、どこかの老人ホームから集団脱走して来たに違いない。
聖書の中に隠した小さなピッケルで少しずつ壁を掘り、
雷雨に紛れて下水道を這い進み塀の外へ、
時かけ』をみるために。

否。彼女らこそ、未来からタイムリープしてきた未来人に違いない。
彼女らが生きる未来では既に消失してしまったこの名作、
今の時代、この場所でしか見ることの出来ない、
時かけ』をみるために。

それはそれとして。このお話について。

細部にまでこだわった作画は素晴らしく、
過剰なまでに現実的な日常世界を描写している。
それはは皆どこにでもありそうな風景、学生生活、友情、恋。
これはSFですよ、フィクションですよ、アニメですよ、
そういう絶対的な前提があるにも関わらず、
観客は現実の世界と錯覚する。

でも、それは別の意味で虚構に満ちている。
そのどこにでもありそうな世界は、どこにもなかった世界。

ある日突然下級生から告白される。
友達だと思っていた人に告白される。
そして想いが通じて両想いになる。

それは、現実には「絶対にありえないこと」だ。

そんなものが現実だと言われたら、自分の現実は何だ?
これが模範的な学生生活だとしたら、自分の学生生活は何だったんだ?

本来在りうべからざる世界が「いかにもな学生生活」として正当化され、
自分の持ってきた現実「うすよごれた学生生活」は否定される。
そんな残酷な話が許されていいのだろうか!!

その虚構に対する救済もまた、虚構により為される。
タイムリープ」という空想科学、絶対的虚構により救われる。
この作品が描く虚構「タイムリープ」と現実「どこにでもある学生生活」、
これら2つを同列にフィクションとして捉えることで、
観客は安心して観ることができる。

ああ、全部嘘っぱちなんだな。
学生が恋愛だなんてSFなんだ。UFOなんだ。矢追なんだ。
これで明日からも生きていける。ゲームだけやって生きていける。

そんなわけで、この映画は観る側が駄目人間であればあるほど、
生きる勇気を与えてくれる素晴らしい作品だと思う。

だが、同じく現実を錯覚させ、現実を否定させる映画作品の急先鋒として、
耳をすませば』という映画がある。

この作品は虚構による救済がない。
「あなたにもこんな青春時代があった!」
「どこにでもある才能と恋愛に溢れた学生生活!」
「ごくごく普通のスタンダードな青春ラブストーリー!」
を観客に見せつけ、現実を否定し、悲観させ、
自殺に追い込む恐ろしい映画だ。

今もたくさんの若者がこの作品の犠牲になっている。