てすかとりぽか

最近はポケモンのことを書く場所です。

『挑発するセクシュアリティ』 エロくない

高熱が38度ぐらいの高さなので熱い。

挑発するセクシュアリティ

大学の恩師(といっても授業とっただけ)でもある関修先生が自ら編集され、その一章をも記されているご本。ゲイやセクハラ、同性婚性風俗にコスプレといった、「性」に関するキャッチーな事柄に対し、法学・社会学的に極めて真面目に、しかしながら挑発的な視座から見つめた論文ばかりを集めて掲載しておられます。

「性的な」っていうわりには全然エロい本ではないです。勘違いしないでね。(書帯を噛みしめながら。)

そもそも、関先生の授業とご本には苦い思い出がありまして。夏休みの宿題として、先生がゲイカルチャーに関して記されたご本を読んで感想文を書くというお題があり。実家でそのご本を読んで感想文を書いた後、その本だけを置いてきてしまったんですけど。後からその本を読んだ母親があわてて電話をかけてきまして。

「いや、違うから。違うから。安心してください母上…。」と何故か電話口でいろいろ否定するハメに。

違うけど。それも違いますよ母上。そういう性的なマイノリティの方々に対して奇異の目を向けるというのは違うと思いますよ?あ、いやだから違うって…とそういうやり取りがその後数年つづきましたが、いまや世間的にもゲイカルチャーが容認されてきたせいか、うちの母親もだいぶ寛容に…いや、だから自分は違っ。

そんなわけで、今作の中で一番目をひいた論稿「性とコスプレ・コミュニケーション」について。

大学のサークルの先輩でもある八島心平氏によって記された本稿は、「コスプレ」という極めて現近代的な自己表現手法とその性質を詳らかにすることを通じて、「性」というフィールドを捉えるという視座が何より興味深いところです。何より、本稿によって語られる氏の言論、とりわけ下記について共感を覚えたのです。

“コスプレとは、自ら着替え続けることで、常に新しいコミュニケーションを夢想し、渇望する行為である。”

「コスプレ」の目的とは、単なる服飾嗜好や性転換願望に機縁するものではなく、キャラクターまたはそれが登場するアニメやゲーム作品に対する、自身の尋常為らざる嗜好を外部にアピールすることである。同時に、その自身と同レベルの嗜好を持つ他者とのコミュニケーションを獲得するための手段でもある。

わかります。自分も10年くらい前にコスプレしたことあるんでわかります。(カミングアウト。)

また、彼らは「対象への嗜好」という根本的な目的および手段を強調するが故に、社会におけるコミュニケーションの媒介として、最も基本的な要素である「性差」を脱ぎ捨てている。厳密には、生物学的な性である「セクシュアリティ」を殊更に強調した衣服を纏うことで、社会的性である「ジェンダー」を放棄している。

生物として、社会としての「性差」を脱ぎ捨てて初めて、「嗜好」だけで他者とつながることができる。

…という話ではないかもですが。自身はそう理解しました。「男女の友情は成立するか?」という命題が存在するのは、「性差が友情の障壁となる」という解が予め用意されているからですし。逆説的に、性差が曖昧な世界においては、純粋に趣味嗜好だけがコミュニケーションの媒介となり得るのではないでしょうか。

そういえば、「ネカマ」って言葉を最近聞かなくなりましたよね。

インターネット以前のパソコン通信の時代から、相手の姿が見えないというネットワーク社会の匿名性を利用して「性を偽る」ことを示す、どちらかというと「蔑称」ではありますが。そもそも、近年では「性を偽る」こと自体があまり問題視されなくなり、ソーシャルコミュニティ上では「あたりまえのこと」にもなってしまっています。

mixi」で逆の性を記述することはよくありますし、「Twitter」に至っては性を問われることすらないです。

そうした人気ソーシャルコミュニティの発案者が、その「性差を無くすことによる効果」を狙ってやってることなのかどうかは正直わかりません。何故なら、逆に「性差を際立たせること」で集客を目論む、いわゆる「出会い系コミュニティ」も益々もって隆盛を極めておりますし。例のTwitterドラマだって出会い系をアッピルしてますし。

ただ、そのドラマを批判する声は、間違いなく「性差の希薄な世界を望む声」に他ならないと感じます。

少なくとも、現状の「Twitter」に関しては、その「趣味嗜好だけでつながれる世界」が実現されていると自身でも感じています。しかし、既出のネットワークコミュニティの全てがそうだったように、いずれは「生物的な性、または社会的な性を主目的にする人たち」によって蹂躙されていくのは時間の問題だとも思っています。

サービスの目的がユートピアの創生ではなく「ビジネス」である以上、それは必然と言わざるを得ません。

しかし、ビジネスやお金儲けという意図に関わらず、「性を目的にする者によるユートピアの蹂躙」が行われ、問題となることもあります。「出会い目的でコスプレや同人をやる奴」が問題視されるのは今に始まったことではないですが、つい最近の“pixivの出会い系サイト化”なんてのは、まさに「蹂躙」という言葉意外にありません。

“コスプレとは、現代における「ジェンダーセクシュアリティ」と「コミュニケーション行為」
 を止揚させることができなかった者たちが集う、唯一の「アジール(避難所)なのだ。”

と本稿は締められているように、コスプレにしろTwitterにしろpixivにしろ、社会的な性を捨ててまで築き上げたネバーランドは、所詮は避難所に過ぎません。いつなんどき社会悪に晒されるとも限りません。そして、その力に抗うために、無策であるべきではないと。ピーター・パンは自覚しておく必要はあるのでしょうね。

…ん。なんだか書いてあることと全然違う感想に。先輩ごめんなさいごめんなさいごめんなさ…。