てすかとりぽか

最近はポケモンのことを書く場所です。

『交渉人 真下正義』 および 『容疑者 室井慎次』

交渉人 真下正義

2005年の『踊る大捜査線』のスピンオフ映画。本広克行監督。

容疑者 室井慎次

2005年の『踊る大捜査線』のスピンオフ映画。君塚良一監督。

両作品の制作を務める亀山千広は、フジテレビ映画事業局の最高責任者であり、プロデューサー。いわゆる突っ込みどころの多い物語ながらも、多額の制作費&テレビを用いた大規模な宣伝で押しきって高い興行収入を出すビジネスを「世界の亀山モデル」と揶揄されることが多い。(Wikipediaより)

『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』の宣伝のためTV放映されてるのを観ました。

単に、めんどくさいから2つ一緒に感想を書いちゃえ!ってことではなく、素直に2夜連続でやってたってことと、鑑賞後思ったことがどっちも同じだったということで、めんどくさいから2つ一緒に書いちゃえ!って思っただけですよ。なんてゆーか、どっちの作品も猛烈なストレスドラマなんですが、あまりにも救いがない話で。

とりあえず、フラストレーションたまりまくりです(ビキビキ)。

酔拳2』に例えるなら、ジャッキーが終始フルボッコにされる。酒を飲む間もなくフルボッコにされる。親兄弟も含めてフルボッコにされる。降参して土下座して敗北宣言した後、仲間が少しだけ文句を言い返してくれる。ジャッキー廃人になっちゃったけど、とりあえず命は助かって良かったねというオチ。って感じ。

いったい何がやりたいのか? 何を見せたいのか? 製作者の意図がさっぱりわかりません。

いずれの作品も、犯人や警察官僚に終始振り回されつづける捜査現場をひたすらに、ただひたすらに描き続けるという点は共通しています。そこから読み取れるのは、正直なところ“警察の無能さ”という一点しかありません。それだけを、ただそれだけを終始描き続けることに何の意味があるのでしょうか?

「司法機関の完成形は、少数のサディストと、多数のマゾヒストによって構成されるのだ!!」

シグルイ』かよっ!!ただ、描きたいものの方向性はたぶん同じなのではないのでしょうか。ある種、不条理とまで言える江戸時代の封建社会をシニカルに描くことで笑いを提供する『シグルイ』。同様に、我が国の司法行政機関の腐敗を辛辣に描くことで、笑いが提供できると製作者は思ったんではないんでしょうか。

否、ここまで来ると、単に“製作者は警察のことが大嫌い”としか思えなくなってきます。

少なくとも観てる側としては、警察の腐敗と無能さを見せつけられたところで何も楽しくありません。中には「こんなやつらが我が国の司法を担っているなんて!!」と憤りを覚える人もいることでしょう。日本の警察がほんとにそこまで腐ってるとは自分は思いませんが、ミスリードされる視聴者は少なくないと思います。

そのミスリードがエスカレートすれば、犯罪やテロリズムの助長にも繋がりかねません。

少なくとも、エンタテインメント作品として観客に提供するのであれば、途中はストレスドラマでも構わないけど、最後にはちゃんと大逆転の展開を用意して、観客のフラストレーションを払拭し、カタルシス効果を得られるようにすべきとは思うんですよね。一応、『踊る』本編の劇場版はそこんとこはちゃんとしてますけど。

スピンオフ2作は、犯人も腐敗官僚も野放しのまま終わっちゃうんです。(すみませんネタバレです。)

交渉人 真下正義』は、もしかすると犯人は自殺したかもしれないけど。それにしたって、全部犯人の掌で踊らされてただけじゃんかと。あのクソむかつく犯人を逮捕して法廷に引きずり出して罪に問い、奴が赦しを請い泣き叫ぶところを、水を含ませないスポンジを頭に乗せ電気椅子の墨と化す姿を見なければ納得いきません。

よくよく考えたら、日本は電気椅子じゃないけど。

容疑者 室井慎次』はもっと性質が悪い。キャッシュバックさせるべき対象がラストで曖昧にされてる。殺人を依頼した女性なんか、元々警察官僚からの茶々入れなんか無ければ問題なく逮捕されてたし。灰島弁護士だって、単に依頼を全うしてるだけのちょっとアレだけど優秀な弁護士だし。彼らは本来ラスボスではない。

どう考えても、諸悪の根源は出世欲の塊である2名の警察官僚と、その上司である警視総監だ。

極論すると、悪いのは全部あの警視総監のジジイだ。2名の警察官僚にしては、動機は出世なわけなのだけれど、それを得る手段が甚だ誤っているだけに過ぎない。しかし、その誤りを正すべき立場にいるのは警視総監だ。そいつはなんかもう隠居風吹かして「山はきれいだねえ」とか涼しい顔で抜かしやがって。腸が煮えくり返る。

あの警視総監が2時間丸々『パッション』ばりの拷問を受けるだけのスピンオフ作品がないと赦さない。

なんていうか、途中のドキドキ感やこれからどうなるんだろう?というワクワク感は凄く強い作品なので、脚本や演出は悪くないんですけれど。どうしても後味の悪さが故に、作品全体が否定されかねないんじゃないかと。何より、「このシリーズが大嫌い」という人の異様なヘイトの高さも改めて理解しました。

まぁ、「室井さんかわいそうー!!かわいそうー!!」って言いたいだけのスィーツさんには楽しめるかと。

元々、そういうスィーツ層やライトな層を狙ったシリーズであるはずなので、そういう魅せ方に徹してくれたほうがむしろ清々したのに。室井さんを貫く銃弾、ソレを抱き留め慟哭する青島刑事(妄想の中で。勿論BGMは平井堅。)とか。やっぱり、どっち向いてるかよくわからない作品になっちゃっていますね。

とはいえ、自分は『踊る』シリーズは嫌いじゃないのですよ。(最後にフォローしておくわけじゃないけど。)

最初に観た時こそ、高ニ病全開の時期だったので「なんだこのエヴァの演出丸パクリのドラマは(爆)」とか思って見下していたのですが、再放送とか何度も観てるうちに苦手意識はなくなり。少なくとも、劇場版第1作目は好きです。2作目、3作目や今回のスピンオフを観るにつれ、だんだんまた苦手になりましたけど。

その是非の両端の感情を持ち得ているだけに、『踊る3』を巡るトラブルにも思うところがあったのですね。

『踊る3』感想”にも書きましたが、『踊る3』を観るまでもなくdisる人たちや、『踊る3』の感想をブログに書くだけでもdisられるという現象を観ても、ここまで映画ファンに嫌われているシリーズというのは、他に思い当たらないのですね。それは偏に「世界の亀山モデル」への嫌悪によるものだけと認識していたのですけど。

“名前と宣伝効果だけで売れる映画”へのやっかみと映画業界の未来を心配する声だと思ってたんですけど。

テレビドラマ版や劇場版第1作に比べて以降の劇場版作品のクオリティの著しい劣化、フラストレーションの塊を視聴者に押し付けてくる、まるでストレステストのようなスピンオフ作品群への落胆と憎悪が凝り固まって、2chなどの暗証空域に巨大な“対踊るデススター”を建築してしまったのではないのでしょうか。

『踊る』憎けりゃ、刑事コートまで憎い。そんな想いを理解しました。