てすかとりぽか

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『コララインとボタンの魔女』 親必見

コララインとボタンの魔女

2009年のアメリカのアニメ映画。ヘンリー・セリック監督。

ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のスタッフにより、ストップモーションアニメの手法で作られたアニメーション。3DCGによるアニメーション全盛の中、うっかりするとただの地味な3DCGアニメって扱いで終わっちゃいそうなんだけど。せめて、『ナイトメア』好きとしてはチェックしておきたかったのです。

いやでも、これ本当にホントに3DCGじゃないの?ウソだろ?ええー??

まぁ、創り方の話は置いといて簡単なあらすじ。少女コララインは友達もいない退屈な毎日を送っている少女。両親も多忙なため構ってもらえない。そんなある日、コララインは、壁に封印された小さなドアを見つける。ドアを開けて中に入ると、コララインが望んだ優しい両親がいる夢のような世界だった。

はい。この物語は、全世界の“親”に対して警鐘を鳴らす作品です。

一見、親のいうことを聞かないわがままな子供がなんか酷い目に遭うという、教訓的な物語かなーと思いきや。よくよく見てると、コララインは全然悪い子じゃあない。むしろ、露骨なまでに悪しざまに描かれているのは親の方。仕事ばかりしていてピリピリしてて構ってくれないどころか、料理すら満足に作ろうともしない。

でも、決して子供を愛していないというわけではない。愛しているからこそ、仕事もがんばっているのだ。

勿論、そんな親の心子知らず。子供はといえば言うこともきかないし、なんか変な妄想の世界で“もっといい両親に会った”だの言ってる。「そんなにヨソの家がいいならヨソの子になっちゃえばいいじゃないのよ!」と、つい口をついて出てしまう呪詛の言葉。もう、誰のためにこんなに仕事をがんばってると思ってんのよ!!

そう、この物語は“親”の方に感情移入できるようにできている。だって、我々と全く同じなのだから。

そして、そんな親の想いは、子供には決して伝わらない。「あの子もそのうちわかる」なんてのは、親子のディスコミュニケーションを認めず、正当化する詭弁でしかない。そんな中、子供は一人でもっと楽しい世界、でも危険も紙一重な別の世界に飛び込んで行ってしまう。そして、悪の手に堕ちてしまうのだ。

それは子供が悪いのか?否、子供視点で描かれる本作において、少女の行動は極めて必然的なもの。

コミュニケーションをとろうとしない、料理も満足に作ってくれない親より。目がボタンでできているけど、全力で私をかまってくれて、料理も滅茶苦茶うまい親の方が、素敵な親だと思って何が悪いものか。最終的に、そのボタンの親から、元の両親を棄てる選択を迫られるけれども、そんな屑親なんか棄てて何が悪いのか?

そこで、躊躇したコララインは本当に出来た子供。自分だったら躊躇せず親を棄ててる。

そんなの、子供が親を棄てないのは当たり前だ!なんて思ってる親は、きっと子供に棄てられる親。これは、「子供に棄てられるかもしれない」と恐怖し、自分自身を見つめなおす“親”のための物語。「独りよがりな親の愛情なんてものは何の役にも立たないんだ!」というメッセージを全力で投げつけてくる作品だ。

親の愛情なんて思ってるだけじゃ無駄。全力で、態度と行動で示し、子供にぶつけないと伝わらない。

そして、愛情が伝わらない子供は、勝手に外の世界に愛情を求めてゆく。この物語の魔女は、世間の闇そのものだ。無邪気な子供心を取り込み、魂を奪ってしまう。そんな世間から子供を守るのは、学校の役目でもテレビの役目でもない。親の役目なのだ。ソレを履き違えている馬鹿親が多すぎる。目を覚ませと。そういうこと。

てか、『ナイトメア』を子供の頃に観て育った、今の親世代をピンポイントで狙ってますよね。

勿論、本作は子供が観ても楽しめます。子供は子供でコララインに感情移入して。「あー、うちの親とおんなじだよ。仕事ばっかとか。俺もこんな親棄てて目をボタンにしてえー。」とか思いながら。んでも、魔女に目玉をとられた子供の幽霊のシーンで軽くトラウマを抱えるとよい。あのシーン異様にこええー。

もう、これで、いつでもボタンと針を持って来れば言うことを聞く素直なお子様のできあがりですぜ。