てすかとりぽか

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『コクリコ坂から』 宮崎駿が自己投影した運動家が無双する話

面白かったけど、宮崎パパが採算度外視でやりたい放題書いた脚本を息子に丸投げしたように思えなくもない。

コクリコ坂から

2011年公開の日本のアニメ映画。宮崎吾朗(息子)監督、宮崎駿(パパ)脚本。スタジオジブリ製作。

ぶっちゃけ『ゲド戦記』はあらゆる映画作品の中でもダントツに嫌いで。単純に凡作であるだけでなく、“有名な親父の威を借るだけで映画もアニメもド素人のドラ息子が、広告代理店辺りに担ぎ上げられて撮られた有名無実の極みのような映画”として、業界の将来を考えたら1ミリたりとも擁護したくない作品という認識だったのです。

要するに『賭博堕天録カイジ 和也編』の和也みたいな奴が、いきなり撮った映画みたいな認識です。

…いや、和也が書いた小説は実際面白いけどね。でも、前作では無関係を決め込んでいた駿パパが、今度は企画・脚本から関わっているということで、ようやくちゃんとした意味での宮崎二世として、監督を任せてもらえるようになったんだね!と。生ぬるく見守りたいという意味からも初日から観にいってきました。

…てか、なんだこれ!!駿パパやりたい放題やりすぎだろっ!!

えーと、何から突っ込むべきかな…。世界設定について、原作は80年代の高校における制服廃止運動という、わりかし最近の話だったはずなんですけど。本作では時代を60年代に置き換え、バリバリのサヨ…学生運動真っ只中、その先鋒に立つ男子2人と主人公による権力との闘争や淡い恋愛劇を中心に描いています。

その男の一人、生徒会長で七三黒縁メガネの水沼。駿パパの若い頃に似てません?

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七三髪で、今よりシュッと細めで、黒い縁の太いフレームの眼鏡は昔よりも今の駿パパのイメージが強いですけど。個人的にはどうしても、駿パパが企画・脚本する中で、この水沼というキャラクターに、若かりし頃の自身を投影しているとしか思えないのです。学生時代、運動家であった自身を重ねてらっしゃるのではないでしょうか。

東映動画労働組合の書記長として激しい組合闘争を行った自身に重ねていらっしゃるのではないでしょうか。

てか、この水沼というキャラ、何かと気持ち悪い(いい意味で)んです。初登場の時から、主人公二人が霞むぐらいの“スカしたオーラ”を漂わせてて。主人公とその妹が二人で尋ねていった時、その妹を「エスコートするよ」と言ってサラリとその肩に手を回す“プレイボーイっぷり”といい、本当に気持ち悪いんですよ。

「あ、この子確実にこの七三メガネにヤられちゃう…。」

って無意識に感じる演出でしたよ。でなきゃ、フツー“肩に手を回す”かね?せめて、“先に立って歩き出す”とかそういう見せ方にしないかね?って邪推しちゃうのは自分がゲスなだけかもしれませんけど。同時に、もし駿パパが自身を投影したキャラなんであれば、そういう夢も持たせてしかるべきじゃないかとも思いました。

というか、寺山修司の映画だったら、間違いなく男子学生どもに“輪姦されかねない”状況でしたしね。

自分がどうしても本作の中にある種の“気持ち悪さ”を感じてしまうのは、物凄く緻密に描かれている時代背景の中に“寺山修司っぽさ”を感じてしまっているからなんだと思います。同じ時代を描いた作品の中で、自分が観てるのってそのへんだけなので。だから、男子学生の群れとか見ると、何かしらの恐怖を感じます。

で、さらに水沼=駿パパ論をこじらせるには、少々のネタバレが必要になります。

※※※以下ネタバレにご注意!※※※

水沼たちは、自らの活動の拠点となるサークル煉である“ナントカ荘(名前忘れた)”の取り壊し計画に反対し、学校側と対立しています。一度は校長により取り壊しが決定されるも、水沼と主人公らの活躍により、取り壊し計画をご破算に追い込むことに成功します。それが、本作における抑圧とカタルシス開放に当たります。

これがまた、『千と千尋の神隠し』の「大当たり〜〜!」に匹敵するぐらい、あっさりうまくいっちゃう。

過去の闘争の結果に照らし合わせて、反対運動は“当然失敗する”と自分は思ってたんですね。それが、水沼たちの策略はすべてうまい方にうまい方にばかり転がっていく。いくらなんでも、これは解せません。というか、水沼は、完全に“この勝負の勝ち方について知っている”としか思えない、終始余裕の態度を貫きます。

なぜ、水沼は“勝負の勝ち方”を知っていたのでしょうか。劇中では深く掘り下げられません。

水沼のとった方法は、“決して大人には噛み付かない、長いものには巻かれる。最終的にはより強い大人を利用する。”というものでした。反対集会の際にも、教師が見回りに来ようものなら一時的に論争を止め歌を歌う。校長がダメなら、理事長を懐柔しに行く。いずれも、とても高校生運動家とは思えない老獪なやり口です。

水沼は、主人公が“理事長を懐柔できる鍵”ということも何故か知っていたようにも思えます。

もし、この水沼が駿パパ自身を投影したキャラなのだとしたら、“老獪なやり口を知っている”という点も説明がつきます。また、何より自身が過去に失敗している闘争を、“自分の作品の中で、今度こそ成功させたい!”という想いがあったからこそ、自己のルサンチマンをこの作品の中で発散させようとしたのではないでしょうか。

要するに本作は“ルサンチマン野郎である駿パパが、やりたい放題やってる映画”なんじゃないんでしょうか。

で、そこまでやっちゃって興行収入が悪くても自分の責任にならないように“息子に丸投げした”んじゃないんでしょうか。さすがにそれは邪推しすぎかとは思いますけど、そう思った瞬間に自身の中の“宮崎吾朗監督に対するわだかまり”が氷解し、逆にものすごく応援したくなってきたんですね。

賭博堕天録カイジ 和也編』の和也も、徐々に応援したい対象になってきたのと同じですね。