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泥船てすかとりぽか

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『崖の上のポニョ』 商いの神話

えいが

崖の上のポニョ

2008年の日本映画。宮駿監督。

テレビのを。もう観るのも三回目になったのですが、相変わらず漠然と不安な気持ちにさせられる素敵な映画。その不安の元凶を考察するのを楽しむ時期も過ぎ、見立てるネタも出尽くし、不毛な煽りあいも少なくなってきた頃に公共の電波での放送。単純に、ビジネスとして、商品として神がかってるなぁと感心してしまうのです。

「この作品のプロットは何なのだろうか?」

正直、初見で思うことは皆同じなんじゃないかと思います。これだけわけのわからないストーリー、どうとでも深読みできる意味深な描写の数々。皆その答えを求めて考察サイトを読み漁り、様々な見立てを知り、その知的好奇心を満たすことで読後感を味わう。それが、まずこの作品の二次的な評価に繋がっています。

「実際のところ、宮崎監督は何も考えてないんじゃないか。」

膨大な量にのぼる本作品に関する考察のテクストをひとしきり読んでしまった後で、多くの人がこの結論に至ります。それはそうです。考察文なんか書く人間は、読者が騙されて思い悩むを見るのが好きなだけで、本気でそんなこと考えて書いてませんから。だから、そんな易い考えにいつまでも囚われてる読者もいません。

「つまりプロットなどない。宮崎監督は無意識的にあの作品を作った。」

宮崎監督は何も意図していない。それでも、作品をヒットさせられるのは、彼が天才たる所以なのだ。そして、それに気づいた自分こそ真の作品の理解者である。この考えに至った時点で生まれるのが、この作品への三次的な評価。それは、他の視聴者から頭ひとつ抜けた自分自身への評価、優越感に起因するもの。

「いや、無意識なわけないだろう。全部計算づく。宮崎監督の掌で踊らされているのだよ。」

さらに、よくよく冷静になって思い当たるのがここ。世に無意識から生まれる創作物なんて存在しない。意図が介在しない創作物こそ芸術とかいうのは芸術ゴロの詭弁。優れた創作物とは、緻密な研鑽の結果として、常人に計り難い意図を、"無意識を装って"巧妙に織り交ぜるという、大いなる意図の結果物に他ならないのだから。

「意図がわからない上には、評価が確定しない。否、評価を確定させないこと自体を意図しているのでは?」

「評価を確定させないこと。」が意図。だって、そうしてる間は何度でも『ポニョ』見るもの。既に、三回観てもモヤモヤしてる人間がここにいるもの。たぶん、テレビでやったてたらまた見るもの。そして、また不安な気持ちになって色々考えて、結果評価は確定しないもの。そしてまたテレビでDVDで観るもの。お金落とすもの。

本当にそういう意図があったかは別として、商品としてえげつないほど素晴らしい構造なのは確定的に明らか。