てすかとりぽか

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『オブリビオン』 パクリとオマージュについて

オブリビオン

2013年のアメリカ映画。ジョセフ・コシンスキー監督作品。

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同名のゲームが有名なので、それの映画化か?と思った人は100万人ぐらいいたでしょうけど、ソレとは全く異なる“ものすごくしっかりしたSF作品”として楽しめました。最近はSFいうたらB級ホラーかバカ映画と決まってたのにね。全然期待してなかった自分をちょっぴり呪います。

あと、今やってるゲーム『真・女神転生4』ととても似た話でした。

「似た話でした」以上そこを掘り下げるつもりはないです。パクリとかオマージュとか言う話は個人的にあんまり好きではないので。というか不毛だなあと思うので。つい最近某映画に「パクられた!」と憤る漫画家さんの話があったのですが。せっかくなので自分のパクリ&オマージュについて思うことをば。

まず、“パクリ”の定義について認識を示しておきます。

“既存のものに似た作品やネタを作ること、あるいは極めて似た作品やネタを発表すること(ネタをぱくった、など。本来は剽窃、盗作)。ただし、この場合、剽窃元とした作品よりも劣っているものや、剽窃元をほぼそのまま流用(コピー・トレース)している事が誰の目にも明らかなものに対して使われることが多い表現である。”

上記wikipediaからの引用ですが、概ね同じ認識です。そして、“事実、剽窃や盗作である”と“著作権の権利者が問題である”とするのであれば、しかるべき形で詳らかにし、その“パクリ行為”に関しては相応の是正を求めること必要があると考えます。“パクリ”に対する認識で、ここが違うという人はそういないでしょう。

しかし、「パクリだ!」と権利者でもない人間による作品批評の根拠として用いられることに感じる違和感。

「はい、パクリました」と作者が言ってるならまだしもですが。脚本の似てる部分、絵柄の似てる部分をこそげとって「これはアレのパクリ(ドヤァ)」とする批評を見るとね。ほんと。お前が一体その作品の、そしてそのパクられたと言ってる作品の何を知ってるんだろうと。ほんと。

“人は人の真似をしないと生きていけない。”

これは“まねる”と“学ぶ”が元は同義であったことや、茶道開祖である川上不白が“守・破・離”というものごとを習得する段階として「まず、お手本を忠実になぞることから始めなさい。」と教えていることからも分かることですが、逆説的に“何も真似ずにゼロからモノを創ることはできない。”ということです。

また、「自分が思いついた程度のことなんて、他の人が既に何人も考えてる」は、企画仕事をしていると常にぶち当たる命題です。そこで逐一「世界中の誰も考えてない企画かどうか?」を気にしはじめたら、何も生み出せなくなってしまいます。今はネット検索があるので、ある程度の無意識のトレースは回避できますが。

デザインに関しても同じです。例えばドラゴンのデザインに関して、誰が一番最初に考えたのか?を調べてみると、記述に関しては中国の『山海経』の応龍あたりが一番古かったりします。ただ、伝承に関しては交わりのない筈の各文明間でだいたいどこも似たようなデザインを生み出していたりします。

“人間が恐れる動物を組み合わせるとだいたいああなる”んです。誰でも考えつくデザインなんですね。

故に「俺がこのアイデアのパイオニアだ!」という人はだいたい勘違いが多いとも思うわけですが、権利を侵害されたと感じたのであれば、それはしかるべき形で司法に委ねるべきと考えます。だけど、そのアイデアの成立過程を何も知らない無関係の赤の他人が「パクリだ!」と言うのは論旨が通らない主張と感じるのですね。

そして、“オマージュ語り”の方にも同様の違和感を感じるわけです。

“オマージュ(仏:hommage)は、芸術や文学においては、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事。また作品のモチーフを過去作品に求めることも指す。しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる。”というwikipediaの記述と認識は変わりません。

「この作品はアレのオマージュです。」と作者が言ってるわけでもないのに、「コレはアレのオマージュ(ドヤァ)」というのが嫌。個人的に、作品の感想書くのがめんどくさい時とかにやっちゃってたという罪悪感もあるのですが、いかにもその「俺はこの作品の全てをお見通し」という高慢さに溢れた感が嫌。

厳密に言うと「オマージュなんじゃない?」はよくて「オマージュに決まってる!」が嫌。

さらに「コレはアレのオマージュに決まってるんだから、お前の観方は間違っている!」とまで言ってくる人が嫌。感想や批評は個人の自由なんだから何のオマージュでもいいよお前の中ではそうなんだろうから。でも、その感想を他人に押し付けてくるんじゃねえよ。と思いつつ「ですよねー」と大人の返答する自分が嫌

さらにそこに「俺、映画いっぱい観てるだろ?マイナーな映画知ってるだろ?」が乗ると、もうね。

この場合は、概ね映画の1シーンや台詞だけを抜き出して、似たような過去作品を探してきて言っている場合が多いのですが。オマージュであると作者が明確に語っている場合を除いて、「なんか似ている」という極めて薄弱な根拠を元に「俺はネタ元を知っている」ということを言いたいんだと思うのですが。

映画をたくさん観ていること、マイナーな映画も知っていること、それは教養として素晴らしいことだと思います。でもね、そのお前がオマージュ元だっていってる映画には原作小説があってですよ。その作者がどこぞの伝承をモチーフにしたって言っちゃってるんですよ。みたいなこともよくあるわけですね。

「だから、ドヤ顔でネタ元を語るなら、映画だけ観てたんじゃだめなんだよ。」

と言いたいとこですが、それじゃ映画批評家はみんな民俗学者みたいなことしなきゃらなんという話になるし、何より「俺はよりネタ元を知っている(ドヤァ)」というブーメランを投げてるので。要するに、“作品批評を通じて自分の教養を主張し、他者に優位さを示す”ような行為は死ぬほど不毛だと思うわけですね。

というか、一番言いたいのは「まず、観た作品をリスペクトして!」ということです。

“その作品が何をモチーフにしたか”という部分を観てもらいたくて作品を創るクリエイターなんかいないです。本当にオマージュ心から真似たとして、観てもらいたいのはその結果として昇華された部分ですよ。(結果として昇華どころか劣化する例もありますが。)まず、作品自体をメインで語ってあげましょうよ。

その上で「コレはアレのオマージュかも?」ぐらいの謙虚さでオマージュ語りをしましょうよ。

オブリビオン』の話を全くスルーしてこんな文書いてる自分も人のこと1ミリも言えた義理ではないので最後に言い訳だけさせていただきます。だって何書いてもネタバレになるから何も書けやしねえんだから、なんかテキトーなこと書いてお茶を濁すしかないじゃないですか。