てすかとりぽか

最近はポケモンのことを書く場所です。

『桐島、部活やめるってよ』 モンハンを失ったPSP

夏場忙しくて全然映画館行けなかったんですが、猫も杓子も「桐島、桐島」言ってたので。でも、まだ飯田橋でやってたんで、今更ながら観てきました。観てよかった。邦画的には大大大傑作です。とりあえず、ちょっとネタバレも含みつつの感想になりますが、色々考えることが多い映画ですね。

桐島、部活やめるってよ

2012年の日本映画。吉田大八監督作品。同名小説の映画化版となります。

「どんな話なのか?」という点では、タイトルの通り「桐島がバレー部をやめる話」そのまんまなんですが。「それがなんで物語として面白くなるのか?」というのは、映画を観ているうちにじわじわ分かってくるという、知的好奇心をくすぐる作品なんですね。だからこそ、何も知らずに観た方が当然楽しめます。

ただ、物語の構成やその意図に気づかなくとも、フツーに面白いのが本作のまた素晴らしいところです。

キャッチコピーに「あなたの記憶を刺激する」とあるように、誰もが経験している「高校生活あるある」な話なんですね。例えば、本人のいないとこでの女子の陰口とかね。男子校に通ってた自分の記憶にはねーけど。ヲタ友達によるリア充死ねトークとかね。ヲタの友達すらいなかった自分の記憶にはねーけど。

記憶はなくとも「一般的なニンゲンの高校生活ってのはこういうものなんだ!」とSFとして楽しめました。

人間の記憶というものは、実体験だけを基に形成されるものではなく、映画やドラマや小説や漫画を読むことででも擬似体験的に生成されます。だから、本来体験しえないSFやファンタジーも、その知識を集積することで“実体験に近い記憶”を形成し、実体験に基づいた「あるある」として楽しめるようになるのですね。

ただ、「自分はこのスクールヒエラルキーの底辺にすらいなかった…。」ことに気づいて絶望しました。

本作は、『ハイスクールミュージカル』に登場するようなモテ系男女や運動部で構成されるハイヒエラルキー層(ハイランダー)と、非モテ系男女や文化部で構成されるローカスト(地底人)層が「これでもかと」明確に区別されて描かれる、極めて差別主義的(悪い意味でなく)な物語です。

本来はどちらかの陣営に感情移入して観るものなんでしょうけど、自分はそのどっちでもなかった…。

…いい加減自分の過去を穿り返して自爆するのはやめにして、「どんな映画なのか?」の話に移ります。本作は「桐島という人がいなくなる」ことにより、これまで彼に依存して来た人々が狂いはじめるという話です。彼の実力に依存するバレー部員、彼の友達であることをステータスとする友達たち、そして恋人とその友達たちが。

“桐島というアイデンティティを喪った人たちの織り成す、アイデンティティ喪失の物語”になります。

アイデンティティ喪失の物語自体は割とよくあります。大事な人を失った人の物語、記憶を失った人の物語、役割を失った人の物語とか『トイ・ストーリー』なんかもこれ系です。喪失したものへの依存度が高ければ高いほど、喪失がもたらす危機(アイデンティティクライシス)は大きくなり、ドラマとしても面白くなります。

本作に登場するリア充どもは、桐島への依存をもって“自分の地位”を保持しています。

PSPがモンハンに依存している様に、島根県鳥取県に依存している様に、彼らは桐島あってこその彼らであり、だからこそ「桐島が部活をやめる」、たったそれだけのことで脆くもその牙城は崩れ去ってしまうのです。当然、彼らは桐島を探します。でも、見つからない。自分が見つからない。桐島の喪失は彼らに暴走を促します。

彼らの暴走は、ローカストである映画部の撮影を邪魔します。でも、映画部は元々桐島なんか知らない。

「映画が好きで映画を撮る」つまり自分のアイデンティティを自分で確立出来ている映画部の前田君。彼のファインダーには、そんなリア充どもの暴走が滑稽に映ります。奇しくも、映画部が撮影しているのは“ゾンビ映画”。顧問教師の反対を押し切って撮影するそのゾンビ映画は“強烈な自我の象徴”です。

これは“自発行動的ゾンビ VS 非自発行動的ゾンビ(哲学的ゾンビ)”という皮肉で、笑うとこです。

哲学的ゾンビ”は心の哲学で使われる言葉で、デイヴィッド・チャーマーズという人がクオリア(主観的体験が伴う質感)の説明に用いた思考実験で有名な言葉です。「もしかしたら、痛さや悲しみという感情があるのは世界中で自分独りだけで、自分以外の人間はロボットなんじゃないか?」って考えたことありますよね。

「自分以外の人間は、ただ状況に反応して自動的に動いているだけじゃないだろうか…?」

「外面的には、普通の人間とまったく同じように振舞いながら、内面的には、意識を持たない=主観的体験を持っていない人間」のことを、“哲学的ゾンビ”と呼びます。ディビット・チャーマーズは、この哲学的ゾンビという喩えを用いて、「主観的体験こそが世界にとって不自然な存在ではないか?」と問いかけました。

桐島という歯車を失っただけで機能不全に陥るリア充どもは、所詮は意識をもたないゾンビなんです。

モンハンを失ったPSPも(自主規制)兎も角、本作は我々ローヒエラルキーこそが自我同一性を確立しえた優れた人類であり、セックスリア充の糞どもは意識のないゾンビなのだ、ロボットなのだ、BOTなのだ、NPCなのだ、近似アルゴリズムであり巡回セールスマン問題であり粘菌コンピュータなのだ。

あの天パとか我ら選ばれた優良種たる映画部に管理・運営されてはじめて生き延びることができる。

これ以上あの天パにかすみちゃんの手を握らせておくのは人類そのものの存亡に関わるのだ。バレー部の無能なるゴリラ共に思い知らせ、明日の未来のために我が映画部は起たねばならんのである!!てゆか、かすみテメーもだ!!裏切ったな!僕の気持ちを裏切ったな!!最後にこれだけは言っておく…。

ロメロぐらい観とけッ!!

『ホビット 思いがけない冒険』 没個性主人公によるハーレム考

ホビット 思いがけない冒険

2012年のニュージーランド・アメリカ映画。ピーター・ジャクソン監督。

ひょんなことからホビット族の青年ビルボ・バギンズの家に押しかけてきた魔法使いと13人のドワーフたちが繰り広げるハチャメチャでハートフルな冒険ファンタジー。トロールやオークや闇の森のエルフも現れて、さらにはエルフの奥方ガラドリエルと魔法使いのムフフな関係も明らかに…。

ドワーフ”の部分を“妹”に差し替えるとハーレムアニメかラノベになるようなお話ですね。

いや、むしろ“ドワーフ萌え”の人たちにとっては十分ハーレム的なのかもしれません。アメリカの家とかふつーに庭ドワーフだらけだったりするほど、奴らドワーフ好きですからね。日本だとドラクエ10で「ドワーフ緑色で気持ち悪い」とか言われてトップクラスの不人気種族だったりするわけですけど。

なので、全米初登場1位にも関わらず、日本で奮ってないのは多分ドワーフに対する許容性の問題なのでは。

ただ、個人的には原作小説の大ファンでありますので、冷静かつ客観的な評価などはなからするつもりもなく(できもせず)、『指輪物語』に引き続きトールキン×ピージャク世界を全力で堪能することができました。ちなみに原作の小説『ホビットの冒険』は、J・R・R・トールキンの小説『指輪物語』の前日譚にあたります。

ロード・オブ・ザ・リング 旅の仲間』をエピソード4とするなら本作がエピソード1にあたるわけですね。

さて、そんな本作の主人公ビルボは極めて“没個性的なキャラ”として描かれています。それは『指輪物語』の主人公フロドにも共通する点ですが、“無鉄砲な冒険家を幾人か生み出したトゥック家の血筋”という以外は、特に平凡で、日和見主義で、現実主義なホビットとして、本作の主人公は描かれています。

ハーレムにして、主人公の没個性。ますます「それなんてラノベ?」って内容かと思います。

でも、こうした物語の構成要素こそ、本作や『指輪物語』が長年に渡り多くの人々に愛されてきた所以だと感じます。「主人公が八面六臂の無双キャラじゃないからつまらない。」とか「主人公がウジウジしてるだけで成長がないからダメ」とか言う人もいますが、むしろその逆だからこそいいんじゃないんでしょうか。

そもそも、“没個性主人公によるハーレムアニメがなぜ好まれるのか?”という話をしますと。

【1】読者の感情移入対象にしやすい。

ハーレムものを好む読者は非リア充非モテと呼ばれる人たちです。現実世界では個性もなく、モテない故に二次元世界に逃避・代価を求めるのです。そんな自分らが感情移入しやすいのは、イケメンの無双キャラなんかではなく、没個性で冴えない男である必要があるのです。あれ、なんか目から水が出てきた。

【2】ヒロインの純潔価値を高める。

ハーレムものにおける理想的なヒロイン像は様々あれど、共通しているのは“純潔処女である”ことです。アバズレのビッチヒロインなど声優ブログ含めて炎上の対象でしかありません。そんな純情ヒロインが、何の取り柄もなく、恋愛にも奥手な自分らを好きになり、純潔を捧げるという点が魅力なのです。デュフフ。

昨今のライトノベルが「そんなんばっか」になった結果が示すとおり、“没個性主人公によるハーレムアニメは売れる”のは紛れもない事実です。ただ、それが“最近の話か?”と呼ばれると、個人的には違うと思います。『ホビットの冒険』の時点、さらにはもっと昔から、こうした需要はあったのではないかと考えます。

原作小説にある一節からも、トールキンはその需要を意図して描いているとも考えます。

“ 「なにしろあんたはその手で予言を実現させたご本人じゃからな。ところであんたは、あの冒険がすべて、ただ運がよかったせいでとか、わが身かわいさのあまりとか、そんなことできりぬけたと思っとるのじゃなかろうね。あんたは、まことにすてきな人なんじゃよ、バギンズどの。わしは心からあんたが好きじゃ。だがそのあんたにしても、この広い世間からみれば、つまりはただ一この小さな平凡なひとりにすぎんのだからなあ!」 『ホビットの冒険』より”

力がない小さな一介のホビットであっても、世界を変えることができる。歴史を作るのは英雄ばかりではなく、平凡な個人であったりもする。その意図するところは、ハーレムアニメやライトノベルと大きく違うところではないと思います。感情移入を促し、そして本命ヒロイン(本作ではガンダルフ)がデレた時の価値を高めます。

「わしは心からあんたが好きじゃ。」ですからね。ガンダルフの中の人的にも深い言葉です。

『プロメテウス』 出産ギャグ

プロメテウス

2012年のアメリカ映画。リドリー・スコット監督。

自分の中で2012年度公開作品の中で暫定No.1ヒットです。

にも関わらず、まだ感想書いて無かったので、年末ランキング発表とかする際に恥ずかしいから今更駆け込みで書いてるとかそんなんじゃないですからね。いや、ほんとまじでコレ観た当時その面白さに舞い上がってたんですけど、滅茶苦茶忙しくて文字に起こせてなかったんですけど、まぁいいや。

確かに、映画として観ると、それはもう酷い映画だと思うんです。

…といきなり予防線張りから入るのは、本作が割と世間一般的に“酷い映画”として認識されてると知ってるからなんですけど。そりゃあ、“人類の最大の謎、それは「人類の起源」!”とか壮大なキャッチコピーで、この内容の映画を観せてしまうのは、ぶっちゃけ“詐欺”に近いですよ。

何が“「人類の起源」を検索してはいけない”だよッ!

「蓮コラ」って検索してはいけないと同じノリかよッ!他にも、検索してはいけない言葉としては、「赤い部屋」とか「トミノの地獄」とか「アステカの祭壇」とか色々ありますけどね。ちなみに、「人類の起源」で検索しても『プロメテウス』はあんま上の方に出てこないんですけどね。

「エイリアンの前日譚なのかな?」って期待をしても、それは裏切られます。

確かに、「エイリアンの前日譚ではある」と製作サイドからの言及はあるのですが、正直エイリアンファンとしては「冗談キツいよッ!」と突っ込みたくなる程、『エイリアン』シリーズとは雰囲気から何から別モノに仕上がってるんですね。むしろ、エイリアンが好きな人程怒るんじゃないかな…と思えるほど。

ただ、自分はエイリアンファンというよりは、H・R・ギーガーファンなのです。

H・R・ギーガーは『エイリアン』は元より、『スピーシーズ 種の起源』や『キラー・コンドーム』、『帝都物語』、ゲームでは『邪聖剣ネクロマンサー』などのアートデザインを出がけておられる、自身が崇拝する“神”の中の一人にあらせられます。画集『ネクロノミコン』も愛読書でございます。

本作は、エイリアン臭は抑え目なのに対し、その美術部分は煮汁を煮詰めたように、濃いのです。

『エイリアン』にも登場した宇宙人(エンジニア)たちの宇宙船、そのコックピット、フェイスハガー系の寄生生物とその生態、その全ての様式美が“ギーガー煮汁”臭さ満載で匂い立つ、それが本作の世界なのです。高尚な言い方をしてますが、ギーガーは性器をモチーフにしたアートが得意ですので。

元も子もな言い方をするなら、チンコみたいな形した奴がいっぱい出てくる映画です。

もう、まんまです。チンコ以外の何物でもないです。チンコの中からチンコが出てくるような素晴らしい世界です。それでいて、“生殖”を強く絡ませた脚本も素晴らしい。その部分は度が過ぎていて、完全に“SFホラー映画”から離れて“生殖ギャグ映画”になってしまっているわけですが。

だから、『エイリアン』よりは、むしろ『スピーシーズ』に近いんじゃないんでしょうかね。

スピーシーズ』にはトラウマがありまして。そもそも、『エイリアン』関連映画のような宣伝してたので、借りてきて家族と一緒に見ちゃいましたわ。その時の寒さといったら…。思い出しただけで嫌な汗でてくるわ…。そんな汗と涙とイカ臭さに溢れた本作。腹の底から笑わせていただきました。最高です。

いやー、ラスト。あんな感動しない出産シーンというか“出産ギャグ”は未来永劫ない気がします。

『アベンジャーズ』 pixivでロキソーを検索

アベンジャーズ

2012年のアメリカ映画。ジョス・ウィードン監督。

マーヴル・コミックの同名作品を元に、実写映画版『アイアンマン』、『インクレディブル・ハルク』、『アイアンマン2』、『マイティ・ソー』、『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』から成るスーパーヒーロー映画のクロスオーバー作品になります。

完全に夏のお祭りに乗り遅れて、今さらブルーレイで観賞させていただきました。

一応、自身は関連作品は全て観た上で観たので、そのクロスオーバー作品としては非常にまとまりよく(クロスオーバー作品て大抵どれか一極推しになりますからね。)、各キャラの魅力を引き出せていると好感を持てました。ハルク好きのハルキストとしては、ハルクの扱いについて心配ではありましたので。

ただ、他作品観ないで楽しめるか?って言われると、お世辞にも大丈夫とは言えないと…。

そういう意味では、楽しむためのハードルがチョイ高め(少なくとも、アメコミを特に読むこともなく、映画も頻繁にみない一般的な方にとっては)なので、万人にお勧めできるかっていうとそーでもない作品になっちゃってるのが、正直残念なところかなあと思いました。

あと、正直音量の大小の差が大きすぎて、何度も音量の上げ下げが必要だったのも…。

しゃべり声に対して戦闘音や爆発音が大きすぎたり、でも音量下げると今度はキャップの戦闘音だけ聞こえなくなったりと…。キャップ好きなんですけどね。この中では、ハルクの次に好きですね。『マーヴルVSカプコン』では、ハルク・キャップ・スパイディ使ってましたから。

今考えると、自分がマーヴルに興味を持ったのは『マーブルスーパーヒーローズ』という格闘ゲームからなので、その時がキャップとアイアンマンを知った最初ですね。ハルクは夕方テレビでやってたし、スパイディは東映の特撮があったしね。『X-MEN』もゲームから入ったクチです。

ハルクが好きなのは、その夕方やってたテレビドラマ『超人ハルク』をずっと観てたが故です。ちょうど同じ枠でやってた『特攻野郎Aチーム』と『ナイトライダー』は、自分の中でセットで大好きなアメリカドラマになります。あーあと、なんか中途半端に大きいモノが暴れるのは観ていて楽しいですね。

話を映画に戻しますが、ロキの扱いひどい。ひどすぎ。(褒め言葉です。)

これは萌える。ロキソー萌ゆる。冬コミもかつてなく捗ります。pixivで「ロキソー」を検索。

『エヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 ネタバレあり考察

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

2012年の日本のアニメ映画。庵野秀明監督作品。

>>ネタバレなし版の感想はこちら

ネタバレなしの方に書きましたが、本作は別に理解できなくとも「巨大ロボットが飛んだり跳ねたりする映像見て楽しめればそれでいい」と思っていますし、むしろ「娯楽の域を超えて依存の対象とすること」、「物語の構成や単語にメタファーを求めたり、考察することは製作者の意図に反する下種な考え」と思っています。

と予防線を張った上で、与太話として“考察(笑)”をするのは、もはや儀礼の範疇かなと。

とはいえ、まだ観終わってから2時間ぐらいしかたってないので、考察なんておこがましいにも程がありますが、なんとなーく今の高揚感を駄文として残しておきたいなという本旨です。うんならまず、ストーリーの本筋を思い返してみませう。ぶっちゃけ間違ってても後で直さないと思う赤っ恥覚悟です。

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【あらすじ】
前作『破』のラスト、初号機によるニアサードインパクトの後、初号機はシンジを内包したまま衛星軌道へ封印。ネルフは解体。14年後。ゲンドウにより新たに組織されたネルフが13号機を使ったフォースインパクトを画策。ミサト他元ネルフメ面子はネルフ打倒の為の組織「Wille(ヴィレ:独語で意思の意)」を設立。

シンジは初号機とともにWilleに救出される。14年の月日とサードインパクトの引金となったシンジと他メンバーとの確執。Willeは初号機を憑代とした巨大戦艦(艦隊?)「Wunder(ヴンダー:独語で驚異の意)」を起動、使途を殲滅する。しかし、シンジはレイを求めて0号機と共にネルフへ。

ネルフで出会ったレイにコレジャナイ感を抱き絶望するシンジ。逆にカヲルくんとはピアノを介して仲良しになるが、サードインパクトが自分のせいとも知らされさらに絶望。カヲルくんに世界の再創生を促されたシンジは、複座式の13号機に二人で乗り込み、ロンギヌスとカシウスの槍を抜きに行くのだが…。

(なんかどうもこの変がよくわからないんだけど)どうも槍がカヲルくん的にコレジャナイ。ただ、世界の再創生を望むバカシンジ(ガキシンジ)が構わず引き抜いちゃったせいで、フォースインパクトが起きそうに。あと全編通してアスカとマリががんばる。だいたいそんな感じ。

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個人的に気になった点として、まず今回の物語のキーワードとなっている「カシウスの槍」。

ロンギヌスの槍」なら、いわずもがな磔刑にされたキリストを刺したローマ兵士の名のつく聖槍で、エヴァンゲリオンの世界ではアンチATフィールド効果を持つ武器として知られていますが、じゃあ「カシウスの槍」ってなんなんでしょうね。下記はその一説にあたります。

旧約聖書』「創世記」に出てくる鍛冶師トバル・カインが天から落ちた金属で作った槍が「ロンギヌスの槍」と言われてますが、それが紆余曲折した後、ローマの将軍グエナウス・ポンペイウスの部下がソレを発見。カエサルに贈られ、さらにガリア征服の際、勲功を上げた兵士ガイウス・カシウスの祖父に与えられます。

槍はさらにユダヤの地で処刑を行う百人隊長ガイウス・カシウスに伝わります。その後、キリストの体を貫いたとされる「ロンギヌスの槍」は聖遺物(聖槍)として崇められ、カシウス家に大切に受け継がれたそうです。つまり、「カシウスの槍=ロンギヌス槍の別名」ということになります。

もう一つ、先に名が出たカエサルつながりで、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスという人がいます。

「ブルータスお前も可」で有名なマルクス・ユニウス・ブルトゥスと共にカエサル暗殺を首謀した人物ですね。ローマ内戦では元老院派に組してガイウス・ユリウス・カエサル派と対立した人です。最終的にはカエサルの後継のアントニウスに追い込まれ、戦いの中で自軍が全面的に敗れていると形勢を誤解した上で自害してます。

神曲』ではイスカリオテのユダと共に地獄の最下層に配置されてるワースト・罪人として有名です。

ん。「内戦」・「形勢を誤解」・「自害」あたりのキーワードになんかむず痒いものを感じます。シェイクスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』は、カエサルの陰謀と死の他に、ブルトゥスの「名誉欲」・「愛国心」・「友情の間の葛藤」を描いていることも有名ですが、なんかそのへんに『Q』につながる何かを感じます。

『Q』は言うまでもなく「シト新生(死と新生)」の再翻訳版と呼べる作品ですが、『ジュリアス・シーザー』もまた、新しいローマのために死を求めたり求めなかったり、ブルトゥスとカッシウスが「アントニウスを殺すかどうか」で対立したり、さらにアントニウスと「カエサルを殺した理由」の上で対立したり、

どっちも「個々人が自分の望む世界のために、死をどうこうする話」なんですよね。

要するに、今回あえて「カシウスの槍」という呼称を持ち出した理由として、単純に「ロンギヌスの槍の別名」というだけでなく、ローマ史における悲劇をモチーフにした物語構成にしてみたかったんじゃないかな。ホラ、最近塩野七生とかテルマエとか人気じゃないすか。ね。

とりあえず、自分の浅はかな考察は程ほどに、他のプロの人たちの考察が楽しみですね。

『エヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 ネタバレなし

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

2012年の日本のアニメ映画。庵野秀明監督作品。

映画感想書くの久々すぎてブログに広告出ちゃってましたが。本日朝一で観ていろいろ書きたくなったので。

とはいえ、これからご覧になる方は何も知らずに観た方が楽しめると思うので、ネタバレなしの方向性で。ただ、本作に関しては“完全に風呂敷広げ直し”のお話なので、ネタバレ回避すると何も言えなくなっちゃう。風呂敷云々の話さえ下手すれば「ネタバレすんなぶっ刺すぞコノヤロー!」みたいに言われるから怖い。

だもんで、本当内容に全く触れない感想ですが。

正直「滅茶苦茶面白かったけど、滅茶苦茶よくわからない」というのが正直なところです。まぁ、エヴァンゲリオンらしいといえばらしいので、それでいいと思うんです。巨大ロボットが飛んだり跳ねたりしてなんか悪い奴と戦ってるの見るだけでなんか楽しいじゃないっすか。しかも、最高峰の作画技術でもって。ね。

「表層のシナリオも理解できない奴は語るな」的な最近の映画界隈の空気は好きじゃないです。

そも、自分がガキの頃初めて好きになったアニメは『機動戦士ガンダム』ですが、当時は連邦とかジオンとか独立戦争がどーとか全然わからなかったけど。「なんか青いのでてきた!グフだって!つえー!」みたいな感じで、単純に映像を楽しんでたよーな気がします。難しいこと考えずに。ね。

庵野監督だっておっしゃってますよね。(以下引用)

“僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです。作品自体を娯楽の域に戻したかった。ただ、今はそれ(現実逃避するオタクへの批判)をテーマにするのは引っ込めています。そういう人々は言っても変わらない。”

物語の構成や出てくる単語になんらかのメタファーを仄めかすことは演出であって、そこに本質的な答えはない的な話もどっかでしてたと思います。だから、理解しようとしても理解できない「答え」はどうしても残る。ただ、その「答え」に執着せず、ただ「娯楽」として楽しめばいいという物語として作られています。

その「理解できなくても楽しめればいい」という姿勢を、「教養を否定する考え方だ!」と拒否する人の意見も当然わかります。ただ、「映画には答えは一つしかない」、「それ以外の答えは断固排除すべき」、「異分子は殴りつけてもいい」という昨今の“喧嘩型映画評論”の流行には辟易してしまいます。

そーゆーわけで、ごれからご覧になる方には「肩の力抜いて楽に見ましょう。」とお勧めいたします。

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とはいうものの、この観賞後の「火照り」をどうにかする意味で、“考察(笑)”はやっぱりやってみたいと思うわけですよ。もはや、“通過儀礼”とでもいいますか。そういうわけで、ネタバレ&考察も書いてみました。くれぐれも、観賞後にご覧くださいますよう、お願いいたします。

>>『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 ネタバレあり考察

『ダークナイト ライジング』 ベインが好きすぎて辛い(ネタバレあり)

ダークナイト ライジング

2012年公開のアメリカ・イギリス共同製作映画。クリストファー・ノーラン監督作品。

昨日鑑賞した後もずっとニヤニヤがとまらず、今日もずっと会社でニヤニヤしながら本作のこと考えてたんですが、その内容がほとんどベインに関することで自分でも驚きです。実際、“昨日書いた感想”もほとんどベインに関することだったし。逆にバットマンとかアン・ハサウェイの尻のことすらぜんぜん触れてなかったし。

ただ、ベインを小物扱いしてた感想が、今日のうちにだいぶ裏返ってしまいましたね。

実際、後からいろんな映画ブログの感想見て、やれ「ベインが小物」だの、「何がしたいんだかわからん」だの、割と本作の批判する意見のほとんどがベイン個人への批判であり、もはや“戦犯”として扱われてる世評が見て取れたわけですが。そして、その感想について否定はせず、むしろもっともだとすら思いはするのですが。

でも、そんな小物だからこそ、ベインは凄いんじゃないか!?と思うようになってしまいました。

そもそも、前作でヒース・レジャーが演じた“神々しいほど格好いい”ジョーカーに比べて、ベインなんて見た目筋肉ダルマです。『北斗の券』に出てきたら頭の上にカウントも出ないで死ぬタイプです。格ゲーに出てきても使用率1パー未満で静かに次回作から出なくなるタイプです。

見た目だけなら“モテ”や“リア充”から最も遠い宇宙の果てに位置する、“俺ら”に類する生き物です。

そんな“俺ら”と同じ“非モテ”の彼が、“金持ち”を“権力”を“体制と秩序”を「お前らの手でぶっ壊せ!」と、反抗を呼びかけるわけですよ。2chの“喪男板”や“嫌儲板”で燻ってる“俺ら”に向かって、「金持ちを斃せ!」「リア充を殺せ!」「革命を起こせ!」と煽動するわけですよ。

ベインは“俺ら”の待ち望んでるヒーローそのものなんですよ。ネ申なんですよ。

以下、自身は如何にして小物扱いするのをやめてベインを“好きすぎて辛い”のかについて、“嫌儲”“非モテ”“終末待望”という3つのテーマに基づいて書きます。あくまで自身の映画感想に基づく見解なので、製作者の意図とはズレているのかもしれませんが、確かに自身の感じとった認識です。

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【ぼくの好きなベインその1. 金持ち爆発しろ!】

自分は金持ちが嫌いです。厳密には既得権益に踏ん反り返ってる資産家が嫌いです。

露骨にそういう“村の名士”や“議員先生”が幅を利かせ、大人社会では公共事業を牛耳り、搾取し、逆えば村八分にされ職を失う。子供社会ではそのドラ息子どもが我が物顔で暴力を振るうが学校も警察も手出しできない。そんな例のあの県に似たような田舎で育ったせいか、心底“金持ち”と“権力者”が嫌いです。

2011年にアメリカで発生した“ウォール街を占拠せよ!”にも完全に同調する想いです。

“We are the 99%”はこのデモのスローガン。1979年から2007年の間に米国の上位1%の収入は、平均すると275%も増加。下位90%を占める世帯の平均税引き前収入は900$低下しているが、トップ1%の収入は税制が累進的でないため70万$以上増加。こんな世界で自由だ平等だと言う権力者には虫唾が走る想いです。

とはいえ「金持ちを殺して、奪っても構わない」とは思いません。それは明確に“悪”だから。

でも、本当にそうでしょうか?“俺ら”は日々死ぬような思いをして労働して、中には本当に死んでしまう者もいて、それで奴らを稼がせているのに?奴らはたとえ“俺ら”が死んでも屁とも思わないのに?ワタミの社長はあんなんなのに?そんな奴らを「殺したい」というのは、本当に“悪”なのでしょうか?

少なくとも法と秩序の面からは“悪”です。だから、ベインは“俺は、必要悪だ”と言ったのです。

自身を明確な“悪”と認識した上で、それでも“金持ちを殺すこと”について、“必要である”と道を指し示しているわけです。誰よりも金持ちが嫌いな“俺ら”に対して。それが正しいことだとは、自分は1ミリも思いませんが、それに賛同してしまう“俺ら”が多いことは、残念ながら事実として認識せざるを得ません。

ジョーカーの“混沌”はあくまで彼一人が望んだものだったのに対し、ベインの煽動する“必要悪”は、多くの“俺ら”によって賛同される可能性を持っています。それは、おそらくフィクションである劇中に限った話ではないのですよね。現実世界で通用しうる“悪の魅力を持っている”のがベインなのです。

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【ぼくの好きなベインその2. 明日世界が滅べばいいのに】

明日核戦争が起きて世界が滅べばいいのに。割とそんなことを考えながら生きてきました。

いわゆる中二病という奴なのかもしれませんが、中二になる遥か以前から割と近くに原発がある地域に住んでて「アレが爆発したらこのへんは全部終わり」とか大人が言うし、ソレがいつ来るのか怯え、ストレスが常態となり、そんな矢先にそこがバケツでアレして「あー、終わったな…」と思ってたら意外と終わらなかったり。

「むしろ、殺すならもっとド派手に殺してくれよ!!」とすら思うようにもなり。

原子力や核爆弾にまで興味を持って調べるようになり、そのうち『アトミックカフェ』という素晴らしい映画にも出会い、そこで描かれる核爆発の美しさに見惚れ。『筋肉少女帯』の“そういう曲”を聴いては「あー、早く今度こそ原発が大爆発してこの世が終わればいいのにー。」と考えるのが日常だったりしました。

だから、昨年Youtubeであの映像を観た時、不謹慎ながら「神様はいるなあ」と思いました。

そういう“終末待望論”を持った人ってのは世の中には結構いるみたいですね。ベインの“革命”に賛同した人の中には、彼が持つ“中性子爆弾”による“破壊”を望んだ人も少なくないんじゃないんでしょうか。ベインの場合“革命”がブラフで、彼の目的は最初から“破壊”だったみたいですけど。

「ベインの目的は“革命”なのか“破壊”なのか?その辻褄が合わないからこの映画は駄目だ!」という批判意見が多く見られますが、その点は明らかに“破壊”だと思います。「市民の誰かが起爆のリモコンを持ってる」というベインの言葉をゴードンさんはあっさりと「ハッタリだ」と言ってますし。

そもそも、ベインはタリアへの想いから彼女の復讐計画に手を貸してただけですし。

タリアの目的は、兎に角バットマンへの復讐。ただ殺しはしないってのはベインの口を借りていってますが、バットマンが守るべきゴッサムの民衆をその敵と変え、正義のために作った武器を悪のために転用し、最後にその“破壊”を見せつけてから「死ぬのを許してやる」という、極めて偏執的な復讐。

ベインの目的が彼女の私怨のお手伝いであるなら、その最終局は“破壊”となるわけですからね。

その“片想い”って動機だけを考えると小物感溢れてしまうベインですが、自身は逃げも隠れもせず“破壊”の中心であらんとする姿には、世の終末待望論者たちが惹かれてしまう気持ちが理解できなくもないです。いつか、ああいう悪者が現れて、世界を破壊してくれるんじゃないかなーと。そんな気持ちが。

ああ、もうリアルにいたね。まだ、何の罰も受けてないから、もう一回ぐらい余裕でやりそうだけど。

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【ぼくの好きなベインその3. そして、リア充死ね!】

結局、“俺ら”が金持ちを憎むのも、世界の滅びを望むのも、自分の“リアルが充実してないから”なんですが。金持ちからはいじめられ、女子からはキモいと言われ、社会からは働けと言われ、でもお前みたいなのは働かせないと言われ、ネットに引き篭もって毎日“鬱ブログ”更新して「リア充死ね!」と書く毎日。

そして、ずっーと片想いだった娘は、“リア充男”とやっちゃってることを偶然知っちゃったり…。

そうだよ!ベインも“俺ら”と全く同じ想いしてんじゃんかよ!!なんか変な穴に生まれたと思ったら、フルヌッコされて障害負わされるし。なんか師匠っぽい人が来たと思ったら「なんかお前見てるの辛いわー。破門な。」とか言われるし。で、好きな娘は自分利用するだけ利用して“リア充マン”とよろしくやっちゃってるし。

「あ”−もういいわ!爆弾とかいいわ!今死ね!すぐ死ね!」みたいになっちゃう気持ちわかるよ!

ここも割と「序盤計画が大事とか言ってたベインが、終盤逆上して計画ぶっ壊してテラ小物臭いw」と批判されてるんですけど、ここベインの気持ち理解できないかなー。我慢できるわけないっしょー。ベインさん“俺ら”の気持ち代弁しすぎでしょー。おのれ“リア充マン”貴様これまで何人の女とー!くそー!!

そもそも、アン・ハサウェイのキャット・ウーマンが仲間とかリア充にも程があんぞ!!

俺の仲間見てみろよ。全員男だぞ。女とか一人もいねーぞ。おかしくね?もうちょっとこう、なんかあるだろーふつーよー。なんかこうゴスっぽい女とか、『ファイナルファイト』の敵の女みたいなあーゆー悪そうな女ぐらいいるだろ。え、あいつ男なの?まじで?このさいもう男の娘でもいいです。

みたいな、ベインの、そして“俺ら”の慟哭なんですよ『ダークナイト ライジング』って作品は!!

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個人的にどうしたってベインがただの小物キャラには見えなかったのもあるし、またそこまでベインを擁護する言説も見当たらなかったので、素直に自分のルサンチマンとを重ねた形で、ざっくばらんに想いをぶちまけてみた次第であります。それが映画の感想として正しいか正しくないかはこの際置いとくとして。

ただ、ベインの擁護=ある種の公序良俗に反するって認識はあるんで、本当に彼が好きすぎて辛いのです。

でも、『ダークナイト ライジング』がテレビ放送される頃には、もっと感受性が高くて文章がうまい“俺ら”のうちの誰かが、もっと上手にベインを擁護してくれていて、彼の評価も作品自体の評価も上がってくるんじゃないかなーと、ひそかに期待はしております。そうならないと続編出ないから正直困る。