てすかとりぽか

最近はポケモンのことを書く場所です。

『陰摩羅鬼の瑕』

陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず)』日小説

2003年。京極夏彦著。
白樺湖畔に聳える洋館に住む伯爵。彼は過去四度の婚礼の度、何者かに其の花嫁の命を奪はれてゐると云ふおはなし。

いきなり話はもどって、まだまだお葬式日記。

祖母のお葬式は近くの葬儀社で行うため、密葬の前日と本葬の前日の夜は葬儀社に泊まりこみで、一晩中霊前からお線香を絶やさないようにしないといけません。

最初の夜は、自分と兄で二人だけで泊まっておりました。
そこで、つい出来心から兄に軽い呪いをかけてしまいまして。
呪いをかける絶好の条件が揃ってしまったのでつい、
という『屋根裏の散歩者』のように希薄な動機ですが。
要は巧妙な伏線つきで霊現象を示唆しただけなんですが。
結局、本葬の前夜は兄が葬儀社への宿泊を理由をつけて拒否し、
自分ひとりで泊まることになりました。

正直すみませんでした。
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で、一晩泊まるにもテレビも何もなく暇なので、ずっとこの『陰摩羅鬼の瑕』を読んでいた訳です。ビール飲んで牛焼肉弁当食べながら。罰あたりな。

今作は京極堂によって儒教と仏教による死生観の違い、それぞれの魂魄の捉え方等等ためになるお話が詳細に論じられているので、お葬式の予習として読むのに最適の本です。

実際、今回は祖母の亡くなり方がちょっと普通じゃなかったので、
てゆうかぶっちゃけ「今回も」だったため、
家族や親戚の間でちょっとした心の闇、いわば「呪い」が蔓延しておりました。

そのため、皆の不安を払拭してあげる必要があると強く感じた、というかうちの親が変な霊能者とかに高いツボを買わされたら自分が困るという極めて利己的な思いから、家族・親戚一同の心のケア、いわば憑物落としをすることにしました。

要は仏教(うちの場合は天台宗)における死生観、死んだら魂はどうなるのか、死体(魄)とは何なのかの定義、葬儀・供養・成仏などの意味、正統な因果律の解釈(これが特に呪いの元になります)等を逐一説明すること、つまり軽い説法をしたわけです。

本来は坊主がすべき仕事ですが、最近の坊主はケータイ(Docomoの赤いの)持ってるほど多忙なようなので仕方ない。

子曰く、未だ人に事うること能わず。
焉んぞ能く鬼に事えん。
曰く、未だ生を知らず。
焉んぞ死を知らん。

そもそも、お葬式や法事の本来の目的っていうのは、死者を弔うことよりも遺された遺族の心のケアなんです。

また、こういった説法による憑物落としは、あくまで信心深い仏教徒にのみ通用します。相手が基督教徒ならソレ式、イスラム教徒ならまた別の方式が必要かと思われます。
運良くうちの親戚は皆天台宗で、普段信心深くない人も今回ばかりは信心深くなっていたようなので、自分の話によりだいぶ救われたらしく、後で色々感謝されました。

絶対に人生で役に立たないと思ってた、
大学を出た成果(中国哲学学士)が初めて世の中の役に立ったと思う。

でも、自分自身は別に信心深くもなく、まして仏教徒でもなく、どっちかっていうと無神論者の宗教マニアに過ぎず、京極堂のように全てを補完できる知識もないので、

自身の憑物はぜんぜん落ちてません。

さらに翌日『ノロイ』見て禍具魂まで憑くし。

あと、今日「史上最恐Jホラー・ドラマ」とかいうのがテレビでやってまして。くりーむしちゅーのバラエティー番組の中で、友近が因縁のある呪われた家からの生中継を実施。その中でアレなものが映ってしまうというお話。

途中から全くドラマと知らず見たから、ソレが映った時はすげえ吃驚した。同時に心霊仲間のすくーるさんにメールまでした。でも、ラストでちゃんと全部作りものだったとネタバレしていました。

監督が『ノロイ』の白石晃士監督だったのがちょい驚き!

この場合のネタバレは、ドラマと知らずに見ていた人への大いなる「憑物落とし」です。もし、これでドラマとも何ともいわずに終わっていたら(そういわれずとも、大抵の人はヤラセと気付きまずが)一部の純粋な人は、今夜もう寝られない筈です。

その「憑物落とし」を一切しないのが『ほんとにあった!呪いのビデオ』です。
「ご自身の責任と判断でご覧ください」
視聴者に対して、もう見せるだけ見せて、後はなげっぱなしです。
「ワタシたち、専門家じゃないんで」
投稿者が酷い目にあってても、撮るもの撮って逃げます。

そこに惹かれる憧れる。