泥船てすかとりぽか

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『機動戦士ガンダム00』のばか

"ロシアのサンボの裏技である「三年殺し」をかけられ、自らを短い命と知ったイワン。彼は貧しい子供たちをを安い金で引き取っては、ツンドラの大地に導いていく。そして、イワンは子供たちに世界の裏側について教えた。真実を知った子供たちは毒を飲んで死んでいく。しかし、イワンだけは死ぬことができなかった。"

筋肉少女帯の曲『イワンのばか』の歌詞はこんな物語である。トルストイによる同名の小説ではなく、東欧の民間伝承である「ハーメルンの笛吹き男」に基づいた物語と推測できるが、本日最終回を迎えたあるアニメと、たまたま聴いていたこの曲の内容に奇妙な符合があることに思い至った。

機動戦士ガンダム00』(以下『00』)は『イワンのばか』をモチーフとした物語ではないだろうか?

モチーフであるというのは流石に極論であるとしても、民俗学的な視座からこの二つの作品の構造ならびにそれらが構築された歴史的変遷、さらには物語の原初形態について詳らかにしようとするのであれば、少なくとも次に述べるような三つの類似点に気づくことができると思う。

通過儀礼としてのソレスタルビーイング

『イワンのばか』は「共同体の利益のために自己犠牲となること」、つまり「供犠」の構造を持った物語といえる。それは、相似の物語である「ハーメルンの笛吹き男」の伝承が生まれた、14世紀から17世紀にかけての東欧という歴史的背景を鑑みれば明らかである。

当時の村落は人口過多・飢饉・伝染病の蔓延という共同体としての危機を迎えている中、東方植民活動や十字軍といった形での「若者の口減らし」が盛んであった。その担い手となったのが「乳と密の流れるカナンの地」を謳う吟遊詩人であるが、彼らの甘言に唆された若者たちが辿りつくのは所詮荒地か凍土である。

イワンも笛吹き男も、このような吟遊詩人の寓喩であるといえよう。

吟遊詩人に欺かれ連れ去られた若者たちに「供犠」となることへの自覚があったかどうかまでは定かではないが、結果的に彼らを締め出した共同体は破滅を免れ近代社会への「成熟」を図ることができた。この物語における「供犠」は共同体の救済に留まらず、「成熟」を促す通過儀礼の役割をも得ているのである。

『00』におけるソレスタルビーイングも同種の「供犠」の役割を担っている。

「世界の革新」という目的の下、集められた少年少女たちによって行なわれた行為は「平和のための武力行使」という矛盾である。結果的には、彼らの脅威に対抗すべく、それまで紛争を繰り返していた世界は一つに団結することになったが、その統一を促したソレスタルビーイングは最後まで世界の敵として排除され続けた。

ソレスタルビーングの若者たちにも、「供犠」としての自覚はあったかどうかはわからない。しかし、彼らの自己犠牲とも呼べる行為によって、彼らに敵対した世界が「成熟」を迎えたという事実は間違いない。そもそも、世界に「成熟」を促すための通過儀礼となることこそが、ソレスタルビーイングの真の目的であり、その始祖イオリアの計画であったわけなのだから。

ロックオン・ストラトスの供犠的死。

『イワンのばか』における子供の死が印象的であるように、「ハーメルンの笛吹き男」の伝承から派生した物語の中には「子殺し」が描かれているものが存在する。こうした物語の中で子供が殺されるのはなぜなのか、どのような論理や寓意が秘められているのだろうか。

「子殺し」を連想させる物語を日本の昔話に探してみると「瓜子姫」がまず思い浮かぶ。

「瓜子姫」は語られる地方によって大きく分けて二つのパターンが存在する物語である。一つは天邪鬼に攫われた瓜子姫が生還し、天邪鬼を殺すパターン。もう一つは、瓜子姫は天邪鬼に殺されてしまうが、その後に天邪鬼を殺した時の血から植物が生じるパターンである。

前者の生き残るパターンは、危機を乗り越えた子供の成熟の物語、つまり通過儀礼の成功の物語である。対して後者の殺されるパターンは通過儀礼の失敗を意味している。ここでの通過儀礼とは、かつての共同体における「7歳までは神のうち」という言葉どおり、子供=神が大人=人間になるための儀式のことを示す。

通過儀礼の失敗とは、古代から中世における潜在的な幼少期の死亡率の高さに対する合理的かつ諦観的解釈であり、共同体の秩序を守るための受け皿という意味での「供犠」であるとも言える。その「供犠」の結果として、神である天邪鬼の血から植物(穀物)が齎されたというのであれば尚更である。

つまり、「瓜子姫」の物語は、一方で子供の成長の物語として語られ、他方では子供の死を共同体のための供犠的死という意味に転換する物語としても機能する。その構造を「ハーメルンの笛吹き男」にそのまま当て嵌めるのであれば、『イワンのばか』の「子殺し」もまた殊更に供犠的構造を強調しているものとなる。

前置きが長くなったが、『00』もまた「子殺し」と同時に「子供の成長」を描いた物語である。

子供と呼ぶには薹が立ってはいるが、ロックオンの死はソレスタルビーイングという小さな共同体の中でではあるが、充分に「供犠」と呼べるものであった。その死は結果として他のガンダムマイスターたちの力となり、彼らを自分勝手な子供から、協調性も社会性もある大人へと「成長」させたのである。

イノベイターの子供たちもまた数多くの命を散らせながら、逆説的に世界に平和を齎す糧となった。

■しかし、イワンだけは死ぬことが出来なかった。

しかし、イアンだけは死ぬことが出来なかった。

52歳。妻子持ち。ソレスタルビーイングの総合整備士であり、総計4機のガンダムと宇宙輸送艦プトレマイオスの保守整備、新装備開発などをたった一人で担う、通称「おやっさん」ことイアン・ヴァスティだけは、多くの子供たちが次々と死んでいく中、死ぬことが出来なかった。

イアンが死ねばガンダムはおろかプトレマイオスは整備できず、ソレスタルビーイングは壊滅だ。

ガンダムマイスターのように、たとえ死んでも双子の弟をスペアとして簡単に補充するような真似はできない。嫁と娘もたしかに技術者としては優秀そうだが、ソレスタルビーイングの理念とか世界の革新とかどうってこっちゃないって感がある。それなら、アロウズは真っ先にイアンを葬り去るべきであった。

しかし、子供たち(クリスとリヒティ)が死んで尚、イアンだけは死ぬことが出来なかったのだ。

彼が乗るコンテナ艦が沈んだ時だって、彼がいる格納庫がビームライフルで貫通されて艦体に大穴が開いた時だって、彼は掠り傷ひとつなくピンピンしていた。ほぼ似たような立ち位置(中年)にいるラッセのように擬似太陽炉の粒子に犯されるようなこともなく。

そして、さらに新たな子供(沙慈)を戦場に送り出していく。

そんなイアン自身が死なないことの理由は、その彼に与えられた役割にあるものと考えられる。なぜなら、彼は共同体の利益のために子供たちを死地へと誘うもの、つまり「供儀」への誘い手となる吟遊新人の役割をもっているからである。吟遊詩人はあくまでも「供犠」への誘う者であり「供犠」そのものではないのだから。

つまり、「ハーメルンの笛吹き男」における笛吹き男、即ち『イワンのばか』におけるイワンもまた、同じ理由で死ぬことはない、決して死ぬことはないのだ。この「供犠への誘い手の不死性」こそが、自身が『00』と『イワンのばか』の間に感じた決定的な類似点である。二人の名前の類似性のみを根拠にこの説を唱えるつもりはない。


以上のように、なんでもない話に対し、無理矢理「通過儀礼」だの「人身御供」だのという四字熟語をくくりつけて、いかにもな寓意や論理づけをしてしまうのが民俗学的な物語の読み解き方である。どんなにアレな話でもなんだか哲学的な深い話だと思ってしまえるのがこの視座に立ってみることの最大の利点であるといえる。

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ほんとのところをぶっちゃけますと、最終回も「なんとか着地点をみつけて着地した」感が強いです。結局「オレたちのたたかいはこれからだ!」ってオチにしちゃったし。ていうか、それもう昨日『銀魂』でやったネタだし。(しかも、「一番最終回っぽい終わり方(笑)」的な感じのネタとして。同じサンライズなのにひでえ。)

他の同シリーズ作品に比べても、作画も演出も悪くないのに、やっぱり脚本の悪さだけが際立っています。「狙い打つ」とか「〜ですぅ」みたいに、キャラクター毎に定型詞を固定し同じ台詞を繰り返すことでしかキャラづけができないとかいう序盤の時点で、物語に関する期待は捨てるべきだったのかもしれません。

でも、ラストはアムロ(の中の人)が乗る1stガンダムそっくりの「0ガンダム」が、ラスボスとしてフルボッコにされてたので、やはりこの物語の主題は「水島監督による富野越え」だったんでしょうか。「もう富野と比べるのはやめろ!」的なことをインタビューでは言ってましたけど。そんなにも富野が憎かったんでしょうか。

百歩譲ってそうじゃないとしたら、どうみても不自然な形でモビルスーツを乗り換えてまで(太陽炉はワンタッチで着脱可能なの?できたとしても、誰がやったの?超能力?)戦わせたあのラストバトルの真に意味するところはは何だったんでしょうか。刹那の方は何の躊躇いもなく憧れのガンダムぶっ壊してましたけど。

…でもまぁ、「劇場版につづく」ってことなので、また最後まで見てからなんか言います。
(「劇場版につづくとか言えばいんじゃね?」ってネタも昨日『銀魂』でやったけど。)